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「見せない」昭和天皇と「どう見せるか」を考えた今上天皇

 明仁皇太子がご結婚された昭和34年はテレビ時代の始まりであった。この年だけで民放は21局も開局し、前年に100万台だった白黒テレビの台数が、ご成婚直前には一気に200万台に達している。『皇室アルバム』(TBS)が始まったのもこの年だった。カラーテレビが普及したのは、その5年後の東京オリンピックからである。

宮内庁提供

 若き皇太子ご夫妻がそのことを意識されなかったはずがない。

 戦前の昭和天皇は見せないことで威厳を保った。おそらく戦後の巡幸(昭和21~29年)が始まるまで、御真影を除けば天皇を見た国民はほんの一握りだろう。しかしテレビの登場はそれを一気に葬り去った。テレビの時代は、むしろどう見せるかである。新天皇像をどう見せるかは、すなわち「国民からどう見られているか」でもあった。

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 民間出身の聡明な美智子妃は、それが時代のトレンドであることを充分すぎるほどわかっていたのだろう。浩宮をご出産されたとき、宮内庁病院の御料病室には、皇太子ご夫妻について書かれた雑誌が、週刊誌を含めて山のように積まれていたという。

 もちろん興味半分に読んでいたわけではない。国民からいかに見られているかを知るために違いなかった。どう振る舞えばどう書かれ、それがどう国民に伝わっていくか。そんなことを研究されていたのだろう。それがテレビに反映されないはずがなかった。

被災地訪問を背広から防災服に変えられた

 平成の象徴天皇像の骨格がいつ誕生したのかわからないが、平成28年の「象徴としてのお務めについて」で「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と述べられたように、象徴天皇の軸を国民との「信頼と敬愛」に置かれたことは間違いない。おそらく昭和天皇の“人間宣言”の詔書にある「朕と爾等國民との間の紐帶は(略)信賴と敬愛とに依りて結ばれ」をご参考にされたのだろう。

東日本大震災の被災地・宮城県にて ©JMPA

 では、この「信頼と敬愛」を国民に向けてどう形にするのか。それこそ、テレビを通して新しい天皇像をどう見せるかであった。たとえば、昭和天皇のように立ったまま向き合うのではなく、跪いて被災者一人ひとりに同じ目線で語りかけるスタイルもそうだ。これはまさしく天皇の思いを、国民にどう見せるかを意識されたものだろう。あるいは、平成3年の雲仙・普賢岳も平成5年の奥尻島も背広姿で見舞われたが、平成7年の阪神・淡路大震災から防災服に変わっていくのもそうだ。

平成5年 北海道南西沖地震の被災地・奥尻島に訪問された天皇皇后  ©時事通信社
平成7年 阪神大震災の被災者を見舞う天皇 ©時事通信社