〈歴史は雑学だと思って切り捨てたんだわ〉
大澤がこのような極端な考え方に至ったのは、人文科学分野での基礎的知識の欠如にあるように思えてならない。たとえば、次のような部分だ。
〈かつてドイツやロシアが社会主義国だった頃〉(55頁)
〈日本も敗戦後に資本主義に移行し、高度成長期を迎えている〉(55頁)
ドイツが社会主義国であったことは歴史上ない。東ドイツのことを言っているのかと思ったが、どうも大澤は文脈からするに、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の字面だけをみてナチスドイツが社会主義国家だったと思っているようだ。草葉の陰でムッソリーニが泣いているぞ。
当然、日本が敗戦後資本主義に移行した、という事実も存在しない。日本の資本主義がどこから開始されたかは、近世中期とも殖産時代とも見解が分かれるが、少なくとも敗戦後ではない。渋沢栄一もビックリの嘘が堂々と書かれている。本書の校閲には、もうちょっとしっかりして欲しい。
実際に彼のTwitterでは、基礎教養を軽視した発言が目に付く。
〈歴史は雑学だと思って切り捨てたんだわ。ごめんな。〉
〈そんな雑学学んでどうすんの?アタック25でも出るの?〉(ともに11月23日)
差別ツイートは〈AIが適応し過ぎた結果である「過学習」〉
30代のアカデミック(本当にアカデミックかどうかは兎も角)な世界には、大澤のように“イキる”(意気がる)男性がしばしば現れる。「特任准教授」という肩書を振り回して、「目立ちたい、チヤホヤされたい」と公言して、テレビやネット空間で中身の無い無教養なナルシシズムを全開にしている者も散見される。彼らは、往々にして、やはり大澤と同じように炎上していく。
格好の悪さや洗練されていない部分を排除する彼らは、自らの都合の悪い部分から目を背け、そして、努力せずにして承認欲求を満たそうとする。無教養・反知性主義を肯定し、己の「無知」を平然と開き直る。だが、いかに相対的に他者に優越しているかを自分からことさらに喧伝する人間の心理とは、強烈なコンプレックスを苗床とした一種の心理的防御反応の結果に他ならない。それはえてして、読者や視聴者に見透かされる。大澤の世界観の根底にも、何かしらの埋めがたいコンプレックスがあったのだろう。
大澤は12月1日、自身のTwitterに英語で「Apology」(謝罪)と題した投稿を行った。そこには、今回の言動を陳謝するとともに、次のように今回の発言の背景を説明している。
〈一連のツイートの中で当職が言及した、特定国籍の人々の能力に関する当社の判断は、限られたデータにAIが適応し過ぎた結果である「過学習」によるものです。〉
都合の悪いことが起こると、「AIの過学習」とAIのせいにする。あれ、AIは救国の道程ではなかったのだろうか? 支離滅裂な謝罪の雑文に、見るべきところは何も無い。
(文中敬称略)