もしも“AI美空ひばり”(19年)をなかにし礼や小椋佳が作っていたら……
《やっぱりプロデューサー的な資質のほうが高いですよ。プロデューサーとして、どういう歌を作るかってところから始まって、それから作詞家・秋元康に発注する感じ。この2つはもう、ハッキリ分離している。(中略)自分が阿久悠さんや松本隆さんみたいに芸術家的に評価されてないのは分かるけど、しょうがないんだよね。プロデューサーと作詞家を兼ねてるから。プロデューサーは常に客観を求められる立場だから、全くアーティスティックではない。鈴木敏夫さんがいるから宮崎駿さんがアーティストとして輝くわけだけど、僕は両方やっちゃってるから。画家と画商を兼ねてて、画商のほうが目立ってたら、誰も画家としてちゃんと評価してくれないですよ》(※1)
きわめて的確な分析だと思う。秋元康に否定的な人はおおかた、プロデューサーとしての彼の作為性を嫌っているはずだ。そういう人には、本人がさほど意識せずにやったことでも、計算ずくで仕掛けたものに見えてしまうのだろう。また、引用した自己分析にしてもそうだが
「川の流れのように」は全然売れていなかった
美空ひばりについては、結果的に彼女の最後の曲になった「川の流れのように」に対しても、死を目前にした人にあのような曲を歌わせるのは酷だとの批判があったと記憶する。しかし秋元に言わせると、それはたまたまそうなったにすぎないということになる。