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佐藤 人間にとってパッと見たときに自然に見えたり聞こえたりするものは、実はとても緻密に組み立てられています。たとえば音楽だったら、僕はクラシック音楽をよく聴くんですけれど、モーツァルトの音楽を聴いているとすごく自然に心や体に入ってくるんですね。それは作り手側が綿密に計算しているからこそなんです。

 たとえばメロディーとメロディーの移行部で変な繋ぎ目を感じさせないとか、全体の構成的にも明るい感情を思い起こさせる長調と暗い感じの短調の起伏が自然に思えたりとか。聴いていてなんとなく気持ちよかったり、なぜか感情移入したりしてしまうものなんですけど、作り手の側がめちゃくちゃ綿密に計算しないとそこは伝わらないというところがあると思います。

対局相手によって選ぶ手が変わることも

佐藤 将棋においても、見ているひとにはすっきりした自然な手を指したように思えても、実はプロセスが緻密じゃないとできないということがあります。たとえば藤井(聡太)さんの将棋は、すごく合理的で意図が明確なんです。

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 藤井さんは、非常に計算資源が豊富で、盤上を合理的に考えていく。盤上合理的というのは、将棋盤の上で最善手は何かみたいなことを探求するのを重視すると定義します。その対立概念としては、例えば糸谷(哲郎)さんみたいな時間攻めなどの、状況最善的なものと定義したいと思います。

 藤井さんは盤上のなかだけで真理を探求したいという感じだと思うんですけれど、そういうひとの指し手というのは、合理的選択をしてるからこそ、解説する側もこれこれこういう理由があるからこういう選択をしてるんですねということが解説しやすいんです。

  

打つ手で相手のことが想像できるようになる

綾崎 そのような盤面でのベストな手のほかに、対局相手がだれかによって選ぶ手が変わってくることもあるんでしょうか?

佐藤 ありますね。対局者がこのひとだったらこうやってくる可能性が高そう、というふうに思うことはありますよね。だからそれが棋風というものだと思うんですけれど、でもそこは完全相対軸じゃないですか。我々は盤上合理性だけではない判断をしているわけで、それが結構当たっていたりもするんです。

綾崎 やっぱりライバルとの戦いとなると、お互いのことをよく知っているからこそ、打つ手もまた変わってくるという場合もありますよね。

佐藤 それはあります。世代が離れていても、なんとなくこのひとはこういう考え方で将棋やってるのかなみたいなのがわかってくるというか。盤上に抽象的な形で凝縮されて現れてくるので、指してみると、このひとはこういう観念でやってるんだと想像できるようになるというか。それは将棋のおもしろいところかなと思います。

写真提供:note

イベントのアーカイブ動画(noteチャンネルより)

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 綾崎隼さんの小説『ぼくらに嘘がひとつだけ』は、7月25日に発売されます。佐藤天彦九段への「公開取材」は、どのように物語に生かされているのか。ぜひ作品をお手にとってご確認ください。

ぼくらに嘘がひとつだけ

綾崎 隼

文藝春秋

2022年7月25日 発売

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