阿久津 広重が「ベロ藍」で青を表現しようとしたところの描き方で、梶さん自身の江戸そのものへの愛を強く感じました。「井の中の蛙」は悪い意味で使われますが、「井戸の中にいるからこそ空の深さを知っている」とも意味すると聞いたことがあります。まさにその境地に達していると思いました。キャリアの長い梶さんですが、今作でひとつ突き抜けたように感じます。ぜひとも推したい1作です。
作中では、歌川広重が良い悪いで言ったらむしろ悪いぐらいの人物として登場します。突出した芸術家ではなく、どこにでもいそうな人として描かれているところが、読みやすさにつながっているような気がしました。作品全体として、元は火消しとして炎の赤色に対峙してきた広重が、これまで目にしてこなかった青に出会ったという対比も込めているのかなと想像しています。
平井 今回の候補作は『広重ぶるう』以外がすべて戦記物でした。私は湯屋でののんびりしたシーンやおいしそうな朝餉の描写に癒されました。
市川 わかります(笑)。『孤剣の涯て』の後すぐに読んだので。
平井 あ、私もその順番で読んだからそう感じたのかな(笑)。あと、広重が春画を描く際に「色重」という隠号を用いたことなど、作中にちりばめられたユーモアも大好きで、読んでいてとても楽しかったです。恋愛要素も出てきますがさっぱりとしていたからでしょうか、「好き勝手している広重を支えてあげて、なんていい奥さんなんだ」と思いながら読みました。
この本を読んで、梶さんのことが気になり、インタビューもチェックしました。そこに、広重との出会いは「永谷園のお茶漬け」に入っている東海道五十三次のカード、と書いてあって。私も昔集めていたので、思わず共感してしまいましたね。そういう点も含めて、大好きな一冊です。
もうひとつ考えたのは、日本美術をテーマにした時代小説が、今、どれだけ受け入れられるだろうかという点です。西洋美術は原田マハさんがたくさん書かれていて、アートそのものも割と身近に感じられるかと思います。ですが、私自身の経験からしても、日本美術、ましてや浮世絵となると、読者の方がどのくらい積極的に関心を持ってくれるだろうか、というのは未知数ですよね。もちろん、まだ見ぬ世界に足を踏み入れていく面白さがあるのは、間違いありません。