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「海主陸従」から「陸主海従」へ

 海軍は「2つの敵」と戦っている――と揶揄されてきた。1つは敵国、もう1つは自国の陸軍である。ことほど左様に、陸軍と海軍の仲の悪さは昔から有名だった。

 明治維新後に陸軍と海軍が創設された際、海軍は薩摩閥が、陸軍は長州閥がそれぞれ中心となった。当初は「海主陸従」が大方針とされた。「専守防衛」の観点から、島国の日本を守るには海軍を充実させるべきであるという理念である、

 ところがその大方針は逆転する。きっかけは、不平士族らの反乱である。とりわけ明治10年の西南戦争は、薩摩の不平士族の一団が維新の功労者である西郷隆盛を担ぎ出し、半年以上にわたって政府を苦しめた。こうした内乱では陸軍が主役になった。その後、陸軍大臣の山縣有朋らの主張もあり、日本の軍のあり方は「陸主海従」に移ってゆく。

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山本五十六 ©文藝春秋

 陸軍はドイツ式の兵制を模範とし、クレメンス・W・J・メッケル少佐を陸軍大学校に招聘して教育に当たらせた。一方、海軍はイギリス式の兵制を選択し、アーチボルド・L・ダグラスを団長とするイギリス海軍顧問団を招き、海軍兵学校での教育に従事させた。陸軍エリートが主としてドイツに留学し、東郷平八郎や山本など海軍のエリートはイギリスやアメリカに駐在し学んでいる。近代史では、ドイツと英米は宿敵であった。日本の陸海軍が分断される要因の一つが、ここにもある。

 さらに、陸海軍の分断には、藩閥も影を落としている。陸軍は山縣、乃木希典、児玉源太郎、桂太郎に代表される長州閥が実権を握り、長州閥でなければ出世はおぼつかないとされていた。一方の海軍では、山本権兵衛、東郷平八郎ら薩摩閥が幅を利かせていた。大正、昭和と時代が下るにつれて藩閥の影は薄くなったにせよ、薩摩も長州も「官軍」であることには変わりない。そうした中で「賊軍」の系譜に連なる山本のバックグラウンドがいかに異色であったかは、想像に難くない。

 こうした軍の歴史のなかで、山本の運命も翻弄される。

海軍兵学校での堀悌吉との出会い

 秀才の誉れ高かった山本は、地元の長岡中学から海軍兵学校に進んだ。なぜ高等学校ではなく海軍兵学校だったか。それは、「賊軍」の系譜に生まれた以上、藩閥がものをいう官の道に進んで栄達をはかることは無理であったからだと窺える。しかも生家は裕福ではなかったため、官費で勉強できる軍の学校が現実的な選択肢であった。

 だが、そうして入った海軍も、陸軍ほどではないにせよ、やはり薩摩閥が幅を利かせていた。山本は自分の実力だけで道を切り開いていくほかなかったのである。

 山本の入学時の成績は上位であったとされる。入学後も勉学とともに心身の研鑽に励み、痩せて小柄な体躯を改造すべく、筋力トレーニングに励むなどしていた。海軍では兵学校時代の「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる席次が出世に決定的な影響を及ぼすが、卒業時には11番だった。山本と同じ32期の首席は、のちに海軍中将となる堀悌吉であった。山本は堀の親友となり、その関係は終生続いた。

 堀は学業で優れた成績をおさめるだけでなく、物事の本質に哲学的に迫る鋭さをも兼ね備えていた。彼は海軍兵学校で学ぶうちに、「軍事の本質は、人間性に反するのではないか」と苦悩していた。思い悩んだ末、堀は「軍事は平和を守るために存在する」との確信に至った。これは当時の日本が目指していた帝国主義国家の軍のあり方とは一線を画する理念ともいえた。山本と堀との友情は、このような理念の共有にあると私には思える。

 山本は青年期から「万葉集」や漢籍に親しんでいる。堀との交流のなかで、軍人である前に一人の人間としての素養を大切にしていたのであろう。明治期に教育を受けた軍人の中にはこのようなタイプが少なくない。陸軍と異なり、山本、堀のようなタイプの軍人が海軍人脈の軸を形成していた。なお、こうした海軍人脈はのちに昭和天皇側近となるが、太平洋戦争下では対米開戦反対など消極的な姿勢を示し、歴史を大きく動かして行くのである。