「死に場所」を求めた天才戦略家の苦悩を追う――。昭和史家・保阪正康氏の連載「日本の地下水脈 第31回 山本五十六は何と戦ったのか?」を一部転載します。(月刊「文藝春秋」2023年5月号より、構成:栗原俊雄)
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今なお人気が高い「軍神」
連合艦隊司令長官で海軍大将だった山本五十六の死から、まもなく80年が経とうとしている。
昭和18(1943)年4月18日、山本らを乗せた一式陸上攻撃機は、日本海軍の南方拠点ラバウルのブナカナウ飛行場を飛び立ち、ブーゲンビル島南端のブインの基地に向かった。山本はニューギニア戦線で米軍を叩く「い号作戦」を指揮していたが、作戦終了後、前線にいる将兵をねぎらうのが目的であった。山本はもう一機の一式陸攻と護衛の零戦6機だけを引き連れて現地に向かったが、その途中で米軍の待ち伏せに遭って撃墜され、戦死した。
山本は類まれな軍事的才能とリーダーシップを持ち合わせた人物で「軍神」と崇められ、今なお人気は高い。「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」という山本の金言は、各界のリーダーが好んで引用する。また、対米戦争に強く反対していながらも真珠湾攻撃を実行せざるを得なくなり、司令官でありながら最前線で劇的な死を遂げた山本のイメージは、“悲劇の英雄”そのものである。それゆえ日本人の心を揺さぶり続けるのかもしれない。アメリカでは山本は真珠湾攻撃を主導した「ダーティ・ジャップ」の象徴とされている。だが、戦略家としての才能と紳士的な交渉態度は、連合国側の軍人たちからも一目置かれていた。
今回は、山本五十六という多面体の人物に注目することで、日本海軍の失敗の本質を探るとともに、現在に流れる地下水脈を考えてみたい。
「賊軍」の系譜
山本の生涯を見る際、3つのポイントがある。
第一に、山本の出自は「賊軍」の系譜に連なることである。
山本は明治17(1884)年、今の新潟県長岡市で、長岡藩の儒官の家系に生まれた。山本の実父、高野貞吉の56歳の時の子であったため、名前が五十六となった。貞吉は戊辰戦争で長岡藩が新政府軍と戦ったため、長岡城をめぐる戦いに参加している。のちに山本は旧藩主・牧野忠篤の命により、戊辰戦争で途絶えた藩の名門・山本家を継ぐことになった。さらに山本が妻に迎えた三橋礼子は、旧会津藩士の娘であった。山本自身がどれだけ「賊軍」の汚名を気にしていたかは別として、その周囲には歴史的怨念が渦巻いており、山本の自我形成に大きな影を落としているのである。
第二に、山本は典型的な「アメリカ通」の軍人であったことだ。
海軍大学校を卒業してまもなく、山本はワシントン駐在武官となり、ハーバード大学に留学した。このとき山本は英語を学ぶとともに、アメリカ各地を視察し、産業資本とサプライチェーンのあり方から多くを学んだ。第一次世界大戦後の大正14(1925)年からふたたびワシントン駐在武官を務め、アメリカ政府の要人と親交を重ねた。山本はアメリカでの視察から、今後の戦争は大艦巨砲主義ではなく航空戦力が中心になっていくことを見抜いていた。
第三に、山本は「軍令」「軍政」「現場」という3つのポジションを歴任したことである。
軍令とは、軍の運用や作戦指導を担う組織である。軍令部総長を頂点として天皇に直属し、内閣や議会の制約を受けない。山本は長らく軍令部で要職を務めた。軍政は、予算や人事など軍を維持するための行政的な仕事を担う。山本は海軍次官を務めている。そして現場とは、最前線のことである。山本は連合艦隊司令長官であったが、現場にもくまなく視線を配り、最後は最前線に赴き戦死している。陸軍の場合、この3つのポジションが分業化し、相互の交流が希薄である。それに比べると、山本は海軍全体を隅々まで俯瞰し、日本の海軍力を冷静かつ客観的に把握できていたことになる。
これらの点に着目しながら、まずは海軍の歴史を振り返っておこう。