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 山本が海軍兵学校を卒業したのは、明治37年11月である。この時すでに日露戦争が始まっていた。山本は巡洋艦「日進」に、堀は戦艦「三笠」に乗り込むことになった。これが2人の初の出陣であった。日進も三笠も連合艦隊の中核であり、彼らはロシアのバルチック艦隊との海戦に参加したのである。

 山本はこの時、大けがを負っている。「日進」の砲弾の爆発により、指2本を切断し、右足も負傷した。山本は戦争の傷を背負い、その後の軍人生活を送ることになった。日露戦争において戦争の実態を肌で感じたことは、昭和海軍の最高指導者としての判断に大きな影響を与えたものと考えられる。

 その後、山本は順調に出世の階段を上って行く。海軍大学校に学んだ後、ワシントン駐在武官としてアメリカに赴く。ハーバード大学に学び、アメリカの兵制や産業、さらには文化に至るまで貪欲に吸収した。帰国後の山本は海軍大学校教官として、アメリカで吸収した最先端の軍のビジョンを若手たちに伝えている。山本はこれからの戦争が航空戦主体になることを確信し、日本の航空戦力の充実に尽力しようとした。

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 だが、ファシズムの時代へと向かう中、山本の運命も暗転する。

「条約派」が粛清される

 本連載で何度も紹介したが、明治15年に明治天皇から下賜された「軍人勅諭」では、軍人の政治関与を厳しく戒めている。ところが昭和の陸軍は、自らが政治の主体になろうとした。

保阪正康氏 ©文藝春秋

 昭和3年、関東軍の河本大作大佐が張作霖爆殺事件を起こした。続いて昭和6年には関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が中心となった謀略により、満州事変が発生した。暴走の主体は陸軍であったが、海軍にも異変が起き始める。

 昭和5(1930)年、堀と山本の運命を大きく変える出来事が起きた。ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、条約の順守を是とする対米協調派(条約派)と、条約が定めた艦隊比率に反発する軍令部の軍備拡大派(艦隊派)の対立が顕在化したのである。

 山本はロンドン軍縮会議に海軍側の代表の一員として参加していた。海軍次官の山梨勝之助は条約締結のために奔走していたが、これを面白く思わない反対派もおり、代表団は分裂しかけていた。山本は、むろん本心では条約には反対だったろう。だが、2度にわたってアメリカ駐在を経験し、アメリカの底力を知悉する山本は、ここは条約順守に回らざるを得ないと考えていた。山本は、反米派をなだめる役割を買って出た。戸川幸夫の『人間提督 山本五十六』によると、山本はあらましこんな喩え話を持ち出したという。

「家康は豊臣家を滅ぼす際、まずは難攻不落の大坂城を役立たずにしようと考えた。だから一度は笑顔で和平をし、お濠を埋めた。つまり蟹のハサミをもいでから押さえつけたわけだ。いまアメリカ、イギリスのやり方はこの方法なんだ。気をつけなくては――。ただ豊臣側にも問題があり、それで落城したとも言える。それは内部対立があったからだ。いま我々に必要なのは和合一致だ」

 だが、そうはならなかった。昭和8年から翌9年にかけて、艦隊派主導の海軍人事がおこなわれ、条約派はのきなみ粛清されたのだ。条約派の堀は、いずれ海軍大臣と目されていたほどの逸材であったが、わずか51歳で予備役に編入され、軍歴を閉じた。一方、条約交渉時に強硬な姿勢も見せていた山本は、辛くもこの粛清人事の対象からは外れた。

 しかし、この人事に激高した山本は「俺も辞めてやる」と口走った。海軍内部には、この際山本も追い出せとの声もあった。山本が堀に送った書簡には、こんな一節がある。

「海軍の前途は真に寒心のいたりなり。如此(かくのごとき)人事が行はるる今日の海軍に対し、これが救済のため努力するも到底難しいと思はる。矢張り山梨さんが言はれるごとく海軍自体の慢心に斃(たお)るるの悲境に一旦陥りたる後、立ち直るのほかなきにあらざるやを思はしむ」

 そんな山本を、堀は「お前まで辞めたら奴らの思う壺じゃないか」と制している。

昭和史家・保阪正康氏による「日本の地下水脈 山本五十六は何と戦ったのか?」全文は「文藝春秋」2023年5月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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山本五十六は何と戦ったのか?