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 さらに言えば、公共の場所といっても、その公共性の度合いにはさまざまな違いがあります。たとえば、誰もが通ることのできる、あるいは通らなければならない公道や駅のような場所と、人びとが特定の意志をもって集う美術館のような場所、もしくは表現への接触を主目的としないオフィスのような場所では、求められる2と3のバランスは変わってきます。

反対意見を突っぱねた美術館

 判断の難しい事例を一つ挙げると、2006年にベルギーのシャルルロワにある写真美術館が、日本の写真家である荒木経惟の展覧会を開催したことがあります。この展覧会にさいして、美術館の壁面には彼の作品である女性の裸体写真が掲げられました。

 しかし、この掲示に対して地元の住民から撤去を求める署名活動が起きたほか、掲示に向かって火炎瓶を投げつける者が出る騒ぎになってしまいました。こうした動きに対して、美術館側は「批判する者は中に入らなければよい」と突っぱねたといいます。

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 2019年にあいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」では、昭和天皇の写真が燃える表現が展示されたほか、元慰安婦の少女像が設置されていたことから、脅迫や暴力的な抗議が相次ぎました。それと同じく、火炎瓶を投げつけるような暴力的な抗議行動は論外と言わざるをえません。

 しかし、あいちトリエンナーレと比べてシャルルロワの事例が難しいのは、問題とされたのが美術館のなかの展示ではなく、外に掲示された写真だったということです。この美術館は少し奥まったところにあるとはいえ、公道に面しており、そこからみえるところに女性の裸体写真が掲げられたわけです。

 ただし、この事例にしても公道に面しているから裸体写真は掲示すべきではないと機械的に判断できるわけではありません。そこで問題になるのは人びとの「感性」であり、大部分の人が「芸術なのだから構わない」と判断するのであれば、上述の2と3のバランスはとれているということになるでしょう。

 さらには、芸術であるか否かにかかわらず、公共の場において性的なものが忌避されること自体がおかしいという見方も可能です。法学者の白田秀彰によれば、西洋において性的なものが忌避されるようになったのはキリスト教の影響が大きく、それが近代に入ってから世俗的な社会のルールにまで入り込むようになった。明治維新以降、近代化を急ぐ日本社会にもそうした価値観が取り入れられ、性におおらかだったそれ以前の庶民の文化は消失していく。確かに江戸時代にも性的な出版物が禁止されたことはあったものの、それはあくまで性的なものと遊びが結びつき、贅沢さへの誘惑につながるとみなされた限りであった。つまり、性表現そのものが禁忌だったわけではなかったというのです。