『宇崎ちゃんは遊びたい!』のポスターや、あいちトリエンナーレで展示された昭和天皇の写真が燃える表現……。日本には表現の自由が保障されているにもかかわらず、こうした表現物においては規制に関する議論が起きるのはなぜか?
慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所教授である津田正太郎さんの新刊『ネットはなぜいつも揉めているのか』(筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
「公共の場所」とはいかなる場所か
アニメ表現に対して批判的な立場からしばしば提起されるのは、「私たちは表現規制ではなくゾーニングを求めている」という主張です。すなわち、閉ざされたところで性表現を楽しむのは全く問題ないが、それを公共の場所に掲示するのはやめてほしいというのです。
たとえば、2019年10月には『宇崎ちゃんは遊びたい!』という漫画のポスターをめぐって論争が起きています。
来日中の米国人によるツイートが発端となったこの論争では、「宇崎ちゃん」の胸の大きさを強調するアングルのポスターが新宿駅にある日本赤十字社の献血ルームに貼られていたことが問題とされました。この発端となったツイートの一部を抜粋、翻訳しておきましょう。
◆
私は赤十字の仕事を称賛しているが、だからこそ性を過度に強調する宇崎ちゃんを使ったキャンペーンを日本赤十字社が行っているのにがっかりしている。この手のもののための時間と場所は別にあるんだ。はっきりさせておきたいのは、私はあなた方のこうたフェチに反対しているわけじゃないということだ。あらゆる種類のエロティックな素材には、それに適した場所がある。(…)残念なのは、私がこの広告を見つけたのが、家族と一緒に昼食をとるために新宿駅を歩いている途中だったということだ。
◆
このツイートでも、表現そのものが問題視されているというより、それが駅という公共の場所に貼られていたことが批判されているのは明らかでしょう。それでは、そもそも公共の場所とはどのような場所なのでしょうか。
政治学者の齋藤純一は、「公共性」には(1)国家に関する公的なこと(official)、(2)特定の誰かではなく、全ての人びとに共通すること(common)、(3)誰に対しても開かれていること(open)という三つの意味があると述べています。齋藤はこの1、2、3がそれぞれ対立する関係にあると指摘していますが、ここで特に問題となるのは2と3のあいだの矛盾です。
まず、2の意味での公共性を重視するのであれば、現実的には万人にとっての利益をみつけるのが難しい以上、なるべく多くの人びとにとっての利益の実現を目指すことになります。
「公共の福祉」や「公益」などがこの意味での公共性の使用例で、少数の人びとにとっては嬉しい表現であっても、多数にとっては不安または不快だという場合には、それを避けるべきだという結論になるでしょう。ここからわかるように、この意味での公共性は、しばしば少数者の権利を制限したり、個性を押しつぶす結果をもたらします。
他方、3の意味での公共性では、誰もがアクセスできることが重視されます。たとえば、一般の公園は誰でも入れる場所なので、この意味での公共性を体現する空間だと言うことができます。つまり、そこに誰が、何がやってきても排除してはならないということです。したがって、この意味での公共性を重視するなら、たとえ多くの人びとにとって不快な表現であろうとも、それを排除するのはまかりならんということになるでしょう。
ただし、その不快さが度を過ぎたものである場合、3の意味での公共性がむしろ排除を引き起こす可能性にも注意しなくてはなりません。極端な仮定をすれば、見るだけで体に痒みを感じるようなポスターによって埋め尽くされるような状況になると、多くの人にとってその場所はきわめて入りにくい空間になってしまいます。
いずれにせよ重要なのは、この2と3の意味での公共性のバランスをいかにとるのかということであり、2もしくは3のいずれかをどうやって徹底するのかということではありません。上述のように、2だけを突き詰めると公共性は息苦しくなりますし、3だけを追求しても実質的な排除を引き起こしかねません。