寝宿の訪問による男女交際は自由におこなわれ、親がこれを阻止することはほとんどありませんでした。若者仲間や娘仲間の最も重要な役目が配偶者選択の手助けだったのであり、事実上の仲人の役目を果たしていたのです。武士の慣行が浸透する以前は、結婚に対して親が持つ権限はそれほど強いものではありませんでした。
「村の娘と後家は若者のもの」という言葉が全国にありました。若者は、自分の村の娘を守って他の村との交際を禁じており、村外の男と性関係を持った場合には若者仲間による激しい暴力をともなう制裁がおこなわれました。
瀬川清子は、村内結婚維持のための規制の強さについて、他村の男と親しくした娘への制裁は厳しく、そのころの結婚の大きな条件は村内婚原則だったと記しています。
村落共同体のなかの結婚
若者仲間による男女関係の統制は、結婚というものが村落共同体に強固に埋め込まれていたことに関係しています。
中山太郎の著書『日本若者史』には、当時の村落を生きた人たちの性や結婚をめぐる世界観が生々しく描かれています。
村落共同体において、未婚の娘たちは基本的に「若者連の共有物」とされていました。それゆえ、結婚して特定の一人が相手を独占するためには、若者連の承諾が必要とされました。
娘たちは、村内の男性には性的に従順であることを強いられた一方、村外者に対しては貞操を固守することが求められており、これに背けば村を追放となったり、暴力的な制裁を受けたりするのが当然でした。
鎌田久子らの著書『日本人の子産み・子育て』からも事例を紹介しましょう。
房総半島の山間部の地域では、縁談が決まると、親は娘を連れて酒一升をもって若者組の頭の家に行き「ムスメにしてほしい」と依頼する習慣がありました。キムスメ(処女)を嫁にもらうことは恐ろしいとする風習があり、当時「ムスメ」という言葉は「結婚準備完了の者」を意味したのです。
福島県相馬地方には、「オナゴにしてもらう」という言葉があり、結婚の話が決まると村の宿老に「破瓜」を依頼する風習がありました。女性が処女であることが忌避され、「婚姻可能な成女」であることを公表する意味があったというのです。
イエズス会宣教師として16世紀に来日したルイス・フロイスはこう述べています。
ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは、貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。(ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』)
当時は、処女のままでは結婚できないという規範が多くの地域に存在していました。「処女でなければ縁談に差し支える」などといった規範は、近代以降に登場したものなのです。
このように、村落共同体の規則や秩序が重んじられ、それを破れば厳しい制裁を受けましたが、同輩集団の婚姻統制が機能していた地方では、若い男女の結婚をめぐる自主性は相対的に大きかったわけです。
明治以前の庶民層には、現代から見ればかなり開放的な性・愛・結婚をめぐる慣習がありました。
こうした多様な習俗は、明治になると新たな「文明」の基準に沿って「野蛮」とされ排除されていくことになります。