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共同体本位の結婚から家本位の結婚へ

 明治期を通じて、日本の結婚は「共同体主義的結婚」から「家族主義的結婚」へと変化したということができます(姫岡勤「婚姻の概念と類型」)。

 明治時代に入ってから、武士的な儒教道徳の浸透だけでなく、遠方婚姻の普及によって若者仲間の権威が急速に崩れていきます。交通の発達や市場経済の浸透といった社会構造の変動によって通婚圏が拡大し、他の村落に配偶者を探し求めることが徐々に一般化していきました。

 従来のような幼馴染や若者仲間などが結婚に口出しすることは困難になり、その一方で親や身内の結婚に対する利害関係が強まっていきます。それぞれの家の価値を示す「家格」という問題が人々にとって重大な関心事となり、おのずと結婚の自由が制限されていくことになりました。

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写真はイメージ ©︎AFLO

 武士の儒教道徳を基盤とする教育勅語が制定されたのは1890年のことですが、民俗学者の赤松啓介は、これを境に人々の性や結婚を見る目が大きく転換したことを指摘しています。それまで人々にとって標準的な慣習であった「よばい」が、一転「野蛮」なものとして排除の対象とみなされていくことになったのです(赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』)。

 それにかわって見合い結婚こそが「家」を基盤とした国家構想に好都合であり、社会秩序を安定化させるものとして規範化されていくのです。

 血統維持のために婚前交渉も厳しく制限されます。結婚の条件として、生家の家柄や財産が重視され、結婚の最終決定権は家長にゆだねられることになります。

 よばいが唯一の配偶者選択の方法であった村落の人たちは、よばいの禁止が政府から通達されると「どうやって結婚相手を見つければよいのか」と嘆いたといいます。

 柳田国男は、「まずこれに反抗した者は娘仲間だったと伝えられる。わしらはどうなるのか、嫁に行くことができなくなるがと大いに嘆いた」と記しています(柳田国男『婚姻の話』)。

 村落共同体を生きる人々にしてみれば、よばいこそが配偶者選択の「常識」であり、それ以外の方法は見当もつかなかったわけです。