玲子は4〜5歳頃から、共同便所にあったトイレットペーパー代わりの新聞を読むのが好きだった。隣町に出かけるときの母のお土産も一人だけ雑誌や古本だった。母は玲子に、勉強をすれば立派な人間になり、人からも侮られずにすむと教えた。その教えを胸に刻んで、玲子は学業に励んだ。綴り方が上手だったため、全校を代表して戦地の兵士に手紙を書いたこともあった。
文才のおかげで高等女学校へ進学
小学五年生のとき、両親の話し声を耳にした。玲子は頭がいいのだから、何を売ってでも女学校から師範学校へ進ませよう。教師になれば、たとえ売れ残っても食べていける。その「売れ残っても」という一言が、玲子の胸に深く突き刺さった。口蓋裂があり、しかもすぐ上の姉は美貌を称えられて贔屓(ひいき)にされていたため、容姿に強い劣等感を抱いていたのである。
1942(昭和17)年4月、玲子は名門・就実高等女学校(現・就実中学校・高等学校)に入学。15歳ごろから詩作を始め、次第に文学で身を立てたいと考えるようになった。
妹が15歳で処女を捨て、女郎屋へ
16歳の頃、道端の易者に手相を見てもらったところ、将来の結婚相手は長男で優しい人だと言われた。結婚できると聞いてうれしくなった玲子は妹の敏子にその話をした。すると妹は易者は商売だからそう言っただけといい、「不細工なうえに、阿呆ができるの誰がもらってくれるの」と言った。
そして自分は一昨日、女郎屋の親父を相手に処女を捨ててきたと言う。「寝て約束してきたんや。あそこで働くというのを、別になんとも思わない」。話を聞いた父が怒り狂って追いかけたが敏子は怯まなかった。殴られながら川に飛び込み、叫んだ。「お世辞にも見合いの話、玲子たちにもって来たことあるか」「ざまあみやがれ、淫売になったるぞォ。売って売って売りまくってやるぞォ」。敏子は肉がいっぱいの卵丼を食べさせてくれると言われて友人に付き添われて女郎屋に行った。後悔はなかった。どうせ悪遺伝が知れ渡って結婚できないのだから、多くの男と関係した方が得だと思った。敏子、このとき15歳だった。