社会現象にもなったがん治療薬「丸山ワクチン」を創薬した医師・丸山千里(1901〜1992)。ソニー・ミュージックエンタテインメント社長も務めた長男・丸山茂雄氏が見た「愚徹のひと」の横顔。
寡黙な人で、エピソードがないのがエピソードだ。朝から晩まで、日曜もなく治療と研究に明け暮れた。本人はしかし、地道な毎日の積み重ねを大いに楽しんだ。週に1度囲んだ食卓でも、研究成果を母と幼い子どもたちに披露するのが常だった。
「質素之生活 高遠之理想」とは、母方の祖父で社会主義者の安部磯雄の座右の銘。彼の精神を継ぎ、わが家の暮らしも極めて質素だった。
日本医科大学の皮膚科医として、皮膚結核治療用にヒト型結核菌を無毒化したワクチンを創ったのが1944年。臨床を重ねるうち、「結核患者にがん患者が少ない」と、がんに応用することになった。私学の皮膚科医。医学界の傍流医師ががん治療薬を作ることが、学会政治の中でどれほど危険なことかは本人がいちばん自覚していた。ホームグラウンドであるはずの皮膚科学会誌で論文を発表する直前に、心筋梗塞を起こして死の淵を彷徨った。寡黙な父は、その頃さらに寡黙になった。
交流のあった故・中井久夫医師は著書『臨床瑣談』の中で医学界のタブーと二枚舌を揶揄している。ひとたび自分ががんに罹ると、助教授にコッソリ丸山ワクチンを取りに行かせる教授が少なくなかったという。
1981年には、ゼリア新薬による製造承認申請が、数回の理不尽な基準変更を経て不認可となる。同時に「有償治験薬」という異例の暫定承認を勝ち取るも、父は肩を落とした。ところが翌朝、出勤した父の目に映ったのは、患者が病院に大挙して詰めかける見慣れた光景だった。
毎年お中元やお歳暮の頃になると、りんごやみかん、お菓子の箱が全国から届き山積した。92年に父が亡くなり、好機とみた母が断りの手紙をしたため、やっと半減した。
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source : 文藝春秋 2023年1月号