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「ノーベル賞がつらかった」田中耕一が初めて明かした16年間の“苦闘”

NHK「平成史スクープドキュメント」がスクープした思いとは

2019/03/26

「自分は何かを成し遂げたのか」と自問

 田中はレーザーを当ててもタンパク質が壊れない、「緩衝材」の作成に取りかかった。入社2年目の冬、田中は、試薬にグリセリンを誤って混ぜてしまう。以前の実験で、グリセリン単体では緩衝材として効果がないことを確認していたが、それでも敢えて実験してみることにした。すると、タンパク質の反応が現れたのだ。このとき、田中は25歳だった。

 それからおよそ20年。突如、ノーベル賞授賞の知らせが届いた。田中の人生は一夜にして変わった。一歩外へ出れば人々に囲まれ、「先生」と呼ばれるようになった。受賞当時、田中はまだ43歳。「次はどんな大発見をするのか」と、周囲の期待は膨れあがっていった。一方、学術界の一部からは「偶然、発見をしただけだ」「研究を発展させた科学者のほうが受賞にふさわしい」といった批判的な声が聞こえてきた。「自分は本当に何かを成し遂げたのか」。「自分は受賞に値する科学者なのか」。田中は自問自答を続けた。

島津製作所を訪問した小泉純一郎首相(当時)を案内する田中さん ©共同通信社

血液一滴で病気を診断する方法を開発する

 メディアから距離をとるようになった田中。自分を見失いそうになるなかで、ある目標を立てた。タンパク質を分析する技術を発展させ、「血液一滴で病気を診断する方法を開発する」というものだった。幼いころ病気で母を亡くした田中は、「人々の役に立つ研究をしたい」という入社当時の志に、立ち返ろうと考えたのだ。

 田中は社長らに決意を語って説得し、年間1億円の予算と研究環境を得た。しかし、道のりは困難を極めた。例えば、ガンなど様々な病気に関連する「糖鎖」の構造は、1500万通り以上の組み合わせがあるとされる。思うように研究は進まなかった。責任を果たせない不甲斐なさを抱えながら、苦悶する日々が7年、続いた。

 そんな状況を打開する転機が訪れる。2009年(平成21年)、世界最先端の研究に資金を補助する国のプログラムに選ばれ、5年で35億円という多額の研究資金を得ることができたのだ。田中は若手スタッフを雇うなどして、研究を一気に加速させた。

 もっとも力を入れたのが、認知症の約7割を占めるアルツハイマー病。アミロイドβというタンパク質が脳内に蓄積し、神経細胞を傷つけることで病気が発症するとされている。蓄積が始まるのは発症30年前。血液中に微量しか含まれないアミロイドβだが、血液検査で捉えることができれば、早期発見や治療薬の開発に役立てられるのではと考えた。

現在、若手スタッフとともに研究を行っている ©NHK

実験結果が医学界の常識を覆すことになった

 研究開始から2年。ひとりの若手スタッフがアミロイドβの検出に成功する。田中は天にも昇る心地で、この成果を認知症の専門家に持ち込んだ。ところが、意外にも反応は冷ややかだった。血液中のアミロイドβは、その日の体調などにより量が増減する。そのため、アミロイドβが検出できても、病気を診断することはできないというのが“医学界の常識”だったからだ。実は医療の専門家でない田中は、このことをまったく知らず、研究を進めていたのだった。

 しかし、田中が示した別の実験結果が医学界の常識を覆すことになった。それはアミロイドβとはわずかに構造が異なる「未知のタンパク質」のデータ。学界では、理論上、存在が否定されていたが、今回の実験の過程で偶然、田中たちは検出に成功していた。