約300の学校から子どもに相応しい学校を見つける
中学受験とは、大学進学から逆算してするものではなく、思春期という多感な時期を過ごす環境を自分で選ぶためにすることだと私は思っている。
地元の公立中学の水がその子に合っているのならラッキー。中学受験などせずに、その中学に進めばいい。しかしそうでないのなら、中学受験という選択には、自らに合う水を求めるという意味があるといえる。
大学進学実績が良くて偏差値も高い学校には、本当にいい学校が多いのは間違いない。しかし、大学進学実績や偏差値だけで学校を選ぶことは、年収や肩書きだけで人間を評価するようなもの。浅はかだ。
そのような考え方では、もっと大学進学実績が良くてもっと偏差値が高い学校があったら、常に「自分は負けている」と感じることになる。常に他人と比較することでしか自分を評価できず、いつまでたっても一人の自立した人間にはなれない。教育効果としては最悪だ。
さらに言うならば、もし“いい大学”に行くことが至上目標であるのなら、いっそのこと学校なんて最初から通わず、大学受験対策に特化した塾や予備校に通い詰めたほうが効率がいい。そこで中高6年間、毎日入試対策ばかりしていれば、大抵の大学には合格できるはず。
しかしそんなことをして何の意味があるのか。そう考えてみると、“いい大学”への進学を目的として中学受験をすることや学校を選ぶことが、いかにナンセンスであるかがわかるのではないだろうか。
ましてや親の見栄のために、偏差値の高い学校に子供を通わせようとすることなど愚の骨頂。子供は親の成果物ではない。
首都圏には約300の私立中高一貫校がある。さらに国立、公立の中高一貫校もある。現在、首都圏の中高一貫校は、それらすべてを合わせて巨大な1つの「個性×習熟度」別の教育システムになっていると私はとらえている。
そのなかに必ず、完璧とまではいかなくても、子供が生き生きと思春期を過ごすことのできる学校が見つかるはず。そして中学受験勉強から中学入試本番に至るそのプロセスそのものが、その子が通うべき学校にたどり着くための巨大装置なのだ。その結果にいいも悪いもない。
わが子がわが子なりに努力を続け、本番でもそれなりに力を発揮することができれば、必ずわが子に合った学校にたどり着けるようになっている。無理したり、焦ったりする必要は全然ない。