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なぜ「2割の壁」を越えられないのか

 いわゆる高度成長期の昭和型成長社会において、働き手といえば男性のことであり、彼らが過度な競争社会を勝ち抜くためには、「高い偏差値」と「献身的な専業主婦」が必要だった。そのために受験競争が過熱し、女性は家に入ることを社会的に強要された。それで、女性にとっての高学歴は無用の長物とされた。その価値観がいまだ社会に根強いのである。

 しかし昭和型成長社会は終わった。いま、「働き方改革」と「大学入試改革」が同時に議論されているのは偶然ではない。「働き方改革」とは要するに、”専業主婦に頼らないで社会を回す方法を考えよう”ということだ。「大学入試改革」とは要するに、“偏差値に対する過敏症を治そう”ということだ。新しい社会のモデルを築き上げるために、過去の成功体験の惰性でしかない男性中心の過度な競争社会モデルに一刻も早く終止符を打たなければならない。そのためには2つの改革を同時に進める必要があるわけだ。

 旧来型の社会モデルにおいて「東大女子」とはまさに、「競争社会の勝ち組でありながら家事育児の担い手であるべき女性でもある」という矛盾に満ちた存在といえる。その矛盾が解消されないということは、社会のモデルが変わっていないということである。

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今年4月の東大入学式で祝辞を述べる上野千鶴子東大名誉教授 ©共同通信社

「東大の女子学生が半分にならないと日本は変わらない」

 能力も選択肢もあるはずの東大女子が、納得のいくライフコースを選択できなかったら、ほかに誰が納得のいく人生など実現できるだろうか。そのような社会で多様な働き方も暮らし方も生まれるはずがない。

 1989年に「さつき会」が編んだ書籍『東大卒の女性』に、1950年代のエピソードとして、次のような一節がある。

<私がその頃から、男女差別がどうなどと悲憤慷慨すると、先生(新聞部の顧問だった中屋健一氏)は、「君、東大に女子学生が半分にならないと日本は変わらないよ。しかし、いずれそういう時代が来るだろう」といったんです。>

 慧眼である。しかしそれから60年以上がたつというのに、東大女子率50%にはほど遠い。これでは日本は変わらない。

 その意味で、上野さんの祝辞は、東大関係者のみならず社会全体に対する問題提起として、もっと多くのひとたちに真摯に受け止められるべきなのである。

 どうにでもごまかしようのある「男性の育休取得率」などという数値目標を掲げるよりも、「東大の女子率」を社会構造変化の指標として掲げたほうがいいのではないかと、半分冗談半分本気で、私は思う。

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おおたとしまさ

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