“極端な人たち”をミュートすべきか、ブロックすべきか
もうひとつは、ある程度の棲み分けを進めてしまうことだ。つまりそういう意見は目に触れないようにすること。私はこのために極端な人たちのアカウントをミュートするようにしてきた。世界のさまざまな意見が見えなくなるのは決して良いこととは思えないが、しかし自分が騒がしい街宣車効果に感染して忌避感が高まってしまわないようにするためには、やむを得ないのではないかと思ったからだ。
しかし残念なことに、ミュートには限界がある。ミュートしてもそういう相手からはこちらのツイートが見えてしまうので、リプライで罵声や個人攻撃などが送られてくる。本人の発言はミュートしているので見えないが、それに引きずられた同じグループの先鋭的な人たちのリプライが押し寄せてくる。
これはミュートでは対処できない。私は(記憶にある限りでは)この5年ぐらい、ツイッターのブロック機能は使わないようにしてきた。さすがに互いがまったく見えないというのは、フラットな言論空間を目指す理念としてはあまりによろしくないと考えるようになったからだ。しかし大量に罵声や個人攻撃がやってくるのを見ていると、残念なことにもはやそういうことも言っていられないかなとも思うようになっている。
フラットな言論空間を優先するのか、それとも騒がしい街宣車効果の防止を優先するのか。ここは難しい問題ではあるけれども、いったんは私は後者を優先しようと思う。そしてこの記事が公開された段階で、罵声や個人攻撃の軸になっているようなアカウントをいくつかブロックする予定でいる。
エコーチェンバー効果と、騒がしい街宣車効果。SNSが普及して民意が前面に押し出てくるようになって、政治もメディアもSNSの民意に押し流されていく中で、この表裏一体の二つの問題にどう根本的に対処するかが、いま求められていると思う。これは私たちがこれからじっくりと考えていかなければいけない重要な課題だ。