存在を消されたくないから、書き続ける
「じゃあ、何のために書いているの?」と思われるかもしれません。けれど、私はその質問にはっきりと答えられません。実を言うと、ああしてやろう、こうしてやろう、というようなものを持って書いているわけではないのです。何かのために書かなければいけない、となったら、私は瞬く間に書けなくなります。私の書くことは、何かのメッセージでも、何かを伝えたいのでもないのです。私は書かざるをえないことを書いているのです。
人の存在は消されることがある、自分という存在は消されてしまうかもしれないという、一種の強迫観念が私にはあります。実際に、人の存在というか、考えが消されていく、そういうところを見たり、自分で体験したことが私の原体験となっているわけです。私は社会、学校、病と関わっています。その中で、人の存在が都合の良い悪いで消されていくような気がするのです。社会の中で、学校の中で。
私はその強迫観念を持ち続けたいと思います。そういうものがなければ、私は生きていけません。私は、そういう強迫観念をも消されることは、私の存在を消されることだと思っています。私は消されるのは嫌です。その思いに動かされて、私は書かざるをえないのです。私は気がついたら書いているのです。
何か使命感に燃えているわけではなく、自信があるわけでもありません。私には、常に、ふとした時に「自分は何をしているんだろうか」「自分とは何だろう」という問いが襲ってきます。引きこもっていたときです。一秒の休みなく、その「何をしているんだろう」という問いを問い続けたことがあります。自分が生きている意味、いや、意味よりもずっと前の原始的なこと、「なぜ生きているんだろう」という、ただそれだけの問いです。朝、起きた時から寝るまで、その問いに触れ続けなければいけなく、死というものが私を追っかけてきます。答えはえられないまま。私は今も「なぜ」「何で」と繰り返します。
そういう私が、山を見て、雪を見て、春を見て、暮らし、ご飯を食べ、寝る前に本を読みます。私のまわりは、刻々と変化しているのです。私の問いも答えをえられないまま変化しているのかもしれません。
その変化を、私は書き留めているのです。私は書かざるをえなくなるのです。
それで、何を言ってきたかといいますと、私が書いてきたというのは本当であり、事実であるということです。そして、そのことをこの『別府倫太郎』をもし読んでいただけるのだとしたら、思っていただきたいのです。
そして、私の本には詩が二つ載っています。私が自分の詩を読んでみるとき、本当にいい詩を書くなぁー、天才だな、と天狗の鼻が伸びるときと、なんてものを書いているんだ、と絶望するときがあります。私の詩は抽象的で、そして、いいことを書いていなく、個人の言葉のイメージをのせているものなので、良いのか悪いのか、揺れてしまうのです。
読者のことは本当は気にしない方がいいと思います。実際、書いているときに他者の声が聞こえるとだめな詩になります。自分の世界に浸り、顔が赤らむほど楽しく書いているほうが、繊細で器用ではないけれど、私的にはスピードがあるので、そういう詩が好きです。
私は小説でも、一瞬分かりにくいような小説とかが好きです。その小説の分からない中にも、ぱっと情景が鮮明に広がるところがあったり、本当にドンピシャで泣きたくなるようなところがあったりします。逆に大々的に分かりやすくメッセージを示されると、私はうろたえてしまうのです。
このような私の書くものも、的確なメッセージもなければ、分かりやすくもないかもしれません。けれど、そういう本があっていいと私は思います。そうやって、何とか開き直れるのです。
こういう私が、自分の名前で出した本です。