昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/06/04

金学順さんは慰安婦第一号ではない

 いま金学順さんが、名乗り出た慰安婦の第一号とされていますが、実はそうではありません。

 私は1984年に玉水(ペ・オクス)さんという元慰安婦のかたを取材したことがありました。『レディキョンヒャン』という韓国の女性雑誌に彼女の記事が出ていて、編集長から紹介してもらったのです。

 ペさんは16歳のときに「いい仕事がある」と騙され、身売り同然でミャンマー奥地まで連れて行かれ慰安婦となった女性でした。

 彼女は辛い経験を語りながらも「日本兵も可哀そうだった」と涙を流しました。アジアの奥地で日本軍が壊滅していく中、なんとか生き延びた女性がペさんだったのです。

 ペさんは戦後ベトナムで生活していましたが、ベトナム戦争後「外国人は粛清される」という噂を聞き出国を決意。子供5人を連れ難民として韓国に戻ってきました。

 私が行ったペさんへのインタビューは84年にTBS「報道特集」で放送されました。韓国内では『レディキョンヒャン』だけではなく中央日報でもペさんのことが記事になりましたが、当時は元慰安婦を助けようという世論が日韓で湧いてくることがありませんでした。

金学順さん ©︎勝山泰佑

金学順さんの証言が二転三転したことで……

 太平洋戦争犠牲者遺族会の中にはもう一人Aさんという元慰安婦もいました。彼女に私は90年12月に話を聞きました。証言は詳細でした。しかし、Aさんには養女がいた。彼女は「養女に自分の過去を話していないので実名を公表することはできない」と言うので、仮名でしか出せなかった。

 つまり金学順さんの前にもすでに2人、慰安婦だと名乗り出た女性はいたのです。

 私は前述のように不安を感じました。おそらく金学順さんは、裁判をするにあたってキーセンのことはマイナスになると考え隠したいという気持ちがあったのだと思います。

 翌年の1月、宮沢喜一首相(当時)の訪韓により、日韓問題に注目が集まり「私は元慰安婦だった」と申告する人が急増しました。その中の1人に金田きみ子(軍隊名・日本軍の衛生兵によってつけられた名前)さんがいました。

 私は金学順さんを第1号証言者とすることを回避する、という決断をしました。92年6月1日の初公判では、金田きみ子さんに証言をお願いしました。彼女は慰安婦として7年ものあいだ日本軍に従軍していた女性です。その証言は明確で、日時や場所など全て裏付けがとれるものばかりで真実相当性が高いと考えました。

 金学順さんの証言のブレは、慰安婦問題を語るうえで、後世に大きなシコリを残すことになりました。発言が二転三転したことで、日本側から「売春婦だった」、「慰安婦問題はなかった」などの酷い言論を誘発する事態となってしまったからです。

(インタビュー・赤石晋一郎)

【続き】「慰安婦第1号」金学順さん、証言がブレ続けた理由(後編)

赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立

勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。

 

 

この記事の写真(5枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー