安楽死の肯定に「家族や社会の重荷」
ふたたびビンディング自身のことばを引用しよう。
「彼ら(引用者注、治療不能な知的障害者)の生にはいかなる目的もないが、そのことを彼らは耐え難いとは感じていない。家族にとっても、社会にとっても彼らはとてつもない重荷になっている。彼らが死んだとしてもほとんど心が傷つくことはない。もちろん場合によっては母親や誠実な介護婦の感情では別であろうが。ともかく、彼らには手厚い介護が必要なので、その必要性にもとづいて、絶対的に生きている価値がない命を何年も何十年もかろうじて生かし続けることを仕事とする職業が成り立っているのである」
ここで、やまゆり園事件の犯人を思い出さずにはおれない。彼もまた、犯行の動機に、家族や社会の負担を挙げていたからだ。このような発想は、古今東西を超えて、定期的に吹き出してくるものらしい。
なお、訳書の解説によると、ヒトラーが1939年に安楽死の命令書を出す前に提出を受けたと考えられる報告書には、ビンディングの名前が引用されていたという。『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』が、ナチスの安楽死計画にも連なっているとされるゆえんである。
執拗なまでに「負担」を数字化
それにしても同書を読むと、その表現の苛烈さに何度も驚かされる。100年前の本ということを考慮しても、なかなか受け入れがたい。とりわけ、続くホッヘの文章はそうだ。
「誰にとっても最も重荷となる連中」「空っぽの人間容器」「お荷物連中」「欠陥人間たち」――。医療従事者として「現場を知っている」という認識が、かえって精神障害者への差別的な発言を引き出している。
しかもホッヘは、ビンディング以上に、安楽死に経済的な意味合いを見出そうとし、具体的な数字を数え上げている。
「私は全ドイツの該当する施設にアンケートを送って必要な資料を入手すべく努めた。そこからわかったことであるが、重度知的障害者の養護にこれまでは年間1人あたり平均1300マルクかかっている。ドイツにはいま[施設外で]存命している者と施設で養護されている者との両方を合わせると、すべての重度知的障害者は推定でほぼ2万から3万になる。それぞれの平均寿命を50年と仮定すると、容易に推察されるように、なんとも莫大な財が食品や衣服や暖房として国民財産から非生産的な目的のために費やされることになる」
このあとも、民間施設の場合は借入金の利子も計算に入れなければならないとか、患者が70歳以上に達する場合もあるとか、非倫理的な金銭勘定が執拗なまでに続き、戦慄を禁じえない。
この背景には、ドイツが第一次世界大戦で敗北し、経済的な苦境におかれていたことも大いに関係している。つまり、「こんな非常時なのに、非生産的なことに金を使っていていいのか」ということだ。ここまで言い換えると、昨今の日本にも似たような発言が見つけられるのではないか。