空の世界で世界のあり方を変えてしまった。この事実を知るのは帆高と陽菜の2人だけ。それは、雨が降り続き東京の平野が水没する世界を招いた“罪の自覚”を共有できるのが2人だけということでもある。
周囲の大人たちは、知ってか知らでか帆高を免責しようとする。まるで帆高は無垢のままであると説得しようとするかのように。「東京のあのへんはもともと海だったんだよ」「世界なんてもともとどうせ狂ってるんだから」。だが帆高はそこに居心地の悪さを禁じえない。帆高には罪の自覚が抜きがたくあるからだ。
「ただいま」から「大丈夫」へ 変化した再会の言葉
そして帆高は陽菜のもとを訪ねる。
脚本の段階で2人が再会したときの台詞は、
「おかえりなさい、帆高」
「ただいま、陽菜さん」
というものだったという。「ただいま」という言葉に、帆高の「変わってしまった世界」で生きていく決意が込められているが、あっさりはしている。
これが現在の形になったのは、RADWIMPSが脚本を読んだ上で書いた2曲、「愛にできることはまだあるかい」と「大丈夫」の影響が大きかったという。新海は先述の講演会で「2曲が物語の形を変えてくれてアップデートしてくれた」という言い回しで、ラストシーンには楽曲からの影響が大きかったことを説明している。こうして映画は帆高の「僕たちはきっと大丈夫だ」という台詞に収斂していく。
リフレインする「大丈夫」の意味
帆高はなぜ「大丈夫だ」と言ったのか。
帆高も陽菜も、世界を変えてしまった罪の自覚を抱えている。2人はもう無垢ではなくなってしまったのだ。にもかかわらず陽菜は、坂の上で一心に祈っていた。それは陽菜が、天気の巫女となってしまったあの日とまったく変わらない。自分にはもう晴れ女の力がないことを知っていながら祈っている姿。あの日、空の世界から陽菜を取り返そうとする時、帆高は「自分のために祈って」と陽菜に言った。それなのに陽菜は、水没した街に向かって祈っているのである。
無垢でなくなっても、なお人のために、世界が少しでも幸せになるように、祈ること。むしろ、無垢でなくなったからこそ、陽菜の祈りは「より純粋なもの」としてそこに存在している。そんな祈りがあるのならば、自分たちが選んだこの世界、この街で生きていくこともできる。この思いが帆高の「陽菜さん、僕たちはきっと大丈夫だ」という言葉になるのである。
ラブホテルの夜にあった無垢な世界は消えてしまった。あそこに戻ることは、もうできない。あの夜の楽しい時間は「子供時代のお葬式」だったのだ。だから無垢という言葉を手がかりに、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』からラブホテルの祈りまでをたどっていくと、「大丈夫」という言葉が、無力故に無垢だった子供時代を失っても「大丈夫」という意味合いも帯びてくることがわかる。
そういえば、ラストシーンの帆高は18歳になっているはず。つまり「大丈夫」とは帆高が大人としての第一歩を、新しい世界に踏み出した印でもあるのだ。