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ときには「後ろを向いて」愚直に過去を省みることの必要性

 それはツッコミとしての覚悟なんだとわかる。

《公文書を平気で破棄する安倍政権下の官僚たちの所業は、歴史家からすれば後世の検証の機会を奪う犯罪的行為だろうが、記録し遺すことへの無理解は私たちに共通する病理なのかもしれない。》(P116)

 だからこそ、

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《歴史意識の欠如に、少しでも抗するには、ときには「後ろを向いて」愚直に過去を省みるほかない。》

 ここ数年、権力側がギョッとすることを平然と次々におこなう。こんな状況になったら新聞は「きれいごと」といわれてもそれを言い続けなければいけない。あえてこのような表現で言うが私はそう思う。それほどの状況になってしまったのだ。

 しかしきれいごとを言い続けるには自分への厳しさも求められる。ツッコミ役は辛い。

 だから、こんな時代に一人気を吐くのは猟犬のような週刊誌だ。きれいごとなんて最初から捨てているから追われるほうも恐怖を感じる。猟犬には「良い獲物」も「悪い獲物」もない。すべてが対象だ。スキャンダリズムでありニヒリズムである。でもそんな立ち位置が報道のトップとしてもてはやされてよいのだろうか?

©iStock.com

何かを言っているようで何も言っていない新聞の社説

 著者は言う。新聞も論を持て、と。

「新聞言語圏」だけで通じる言葉を使っていれば「世界をお手軽な意味だらけの平面にしてしまう」「記者がこの意味圏の囚人となり、物事を立体的に彫琢できなくなってしまう」と。

 たしかに新聞の社説は何かを言っているようで何も言っていない。

「誠に遺憾である」とか「~すべきだ」とか何か言ってるようで言ってない。私は「大御所の師匠がブツブツ小言を言っている」と想像したらようやく楽しくなってきたのだが、新聞社を代表する社説は新聞言語圏だけで通じる究極の言葉だ。

 さらに言えばこういうセレモニー的な言動は「憲法九条」など朝日的に絶対に譲れないものにも通底しているのではないか。もちろん譲れなくてもいいのだが朝日言語圏だけで流通しておしまいでは世の中に響かない。これも偽善の一つになってしまわないか。記者個人、個人が放つ“新しいきれいごと”が必要なのではないか。

 本書には「原発と科学報道」「憲法九条」以外にも、「正義の暴走」「フェミニズム」「沖縄と本土」「天皇と戦争責任」が収録されている。書かれている内容に納得できない人もいるだろう。でもそれが「論」なのである。

現場の記者たちがどんどん顔を出すべき

 今後、“エリート主義的で偽善的”と思われてしまうことに新聞はどう対処していけばいいのか。

 ひとつには現場の記者たちがどんどん顔を出すことだと私は思う。紙面上だけでなくSNSでもどこでも。

 新聞社やテレビ局(いや、大抵の企業や集団)は、「上のほう」がとんちんかんなことをやったら世間からは組織全体のことだと思われてしまう。しかし現場は違うはずだ。