有害駆除の対象になった若グマ
クマ関連のネットニュースを開き、やはりクマは危ない生き物だと、認識を強くする。安心安全で便利な世界に生きる私たちにとって、危ない生き物の話は、死の実感を知らず知らずのうちに渇望している日々の中で快感に近い興奮を与えてくれるのかも知れない。
「里に下りてきたクマは麻酔銃で撃って山に返すべき」「なんで警官はピストルでクマを撃たないのか」「安全が確保されているなら市街地でもライフルの発砲許可を出すべきだ」。みんな言ってる事はほとんど正しい。しかし私には、濃霧の先で囁く不確かな声のような、実感の得づらいもののように感じる。
この春、檻の中で「ゴォッガオォッ!」と威嚇するクマの頭に、散弾銃の弾を撃ち込んだ。次の瞬間、口から血を滴らせながら「ギュエォ……」と断末魔のように絞り出した声が、耳から離れない。果樹園に害をなしたと見做され、有害駆除の対象になった若いオスグマだった。
「クマ問題」は答えの出ない問い
クマ問題。これは答えの出ない問いなのではないかと思う。その昔は人間も安心安全などない自然界の生き物の一種であり、他の動物や昆虫と同じように自然の恵みを享受し生きてきた。今、渋谷の真ん中で「自然を感じられない」と言うのは簡単だが、実は渋谷という都市も大衆から自然発生的に湧き起こった「安心安全、効率化」を理想として築き上げられたものなら自然物だと思う。クマが人を叩くのはクマにとっての自然だし、人間が都市を築くのも自然。しかし、本来の生き物の世界は、生と死が表裏一体のように当たり前の事として存在しているのである。
この数年、東京の夏はエアコンをつけずには生きていられないほどの酷暑となっている。今年は私の住んでいる山も夏が長く、キノコが全然出てこないし堅果類の落果も不作になるだろう。クマの出没件数、人的被害が例年より増えている東北地方では、ブナの実が「大凶作」や「凶作」と発表された。果たして人間が気候変動に与えた影響がないと言えるのだろうか?
我々人間が生きている限りは、今ある木を切り倒し植林もするし、奥山を切り拓きダムも作る。人間の造った針葉樹林の下を歩くクマは、食うものがない。そんな時、眼下に広がる人里を見渡しながら思うだろう。「こわいけど、おりないと」と。
今後、更に過疎化が進み、経済が低迷しても都市部での経済活動を続けなければならない日本人は、田舎で起きたクマのニュースに背筋を凍らせる事が増えるかも知れない。その田舎では人間の数が減り、耕作放棄地が点在するようになっている事から、獣が生息できる環境は増えるのではないかと推測される。
11月1日の環境省の発表では、2023年度(4月~10月末)、クマに襲われ命を落とした人は5人だった。心から、ご冥福をお祈りいたします。
今後、クマによる人身事故が1件でも増えて欲しくないと切に思う。それと同時に、「クマは危険」の報道が過熱し、無闇にクマを迫害する風潮が生まれない事を願う。
昨年、スズメバチは全国で20人の方の命を奪った。便利で、でも忙しい安心安全が謳われる社会で、昨年は2万1881人の方が、自身の命を断つ決断をした。