ヘリコプターは田中イズムの象徴だった
――田中角栄は地道な戦術だけでなく、総理時代にはヘリコプターを使って、派手に全国行脚をすることもありました。
田中さんの頃は、いかにして候補者本人が一生懸命闘っている姿を見せ、それを応援してもらえるように周りの人々を巻き込んでいくか。マンパワーで勝敗を決めていくような選挙で、割と国民に近いところで勝敗が決まっていたわけです。
ヘリコプターは、そういう田中イズムを全国的に広げようというひとつの象徴だったのでしょう。つまり、ヘリコプターを使ってまで駆けつけるだけでも、「あの田中さんがあそこまでしても勝たせる価値のある候補者なんだ」というメッセージを送ることができる。支持者への叱咤激励にもなる。陣営内にも「自分たちも頑張ろう」という雰囲気ができて、それぞれの能力をギリギリまで発揮しようとなる。そういうことが勝敗にも影響するということを、信じて疑わなかった時代ですよね。非常に顔が見える選挙、やりがいがある選挙でした。
もちろん世論調査をかけたり、県会議員や首長レベルの人脈を全国に持つように心がけていたと思うんですが、そういうことよりも、やっぱり基本を大切にしていたんじゃないですか。
そういう意味では、今の選挙と根本的に違います。今は、マニフェストをマスコミにどう売り込むかとか、いわゆるイメージで風を吹かせる選挙をやっているわけですよ。「風」に乗り遅れれば、当選できない。努力する者が勝ち、汗かいた者が生き残れるような選挙で、シンプルな戦い方ができたのが昔の選挙だったのが、今は高学歴とか、ブームとか、何だかわからないような形で当落が決まってしまう。
人の心をつかむのが卓越していました
――中村さんはそもそもどうやって田中事務所に入れたのでしょうか。その経緯を教えてください。
私の父(先代・中村喜四郎)が1971年末に参院議員在職中に亡くなった後、翌年の補選(参院茨城選挙区)に私の母(中村登美)が無所属で出たんですよ。父は自民党で大平派だったのに、大平正芳さんは一方的に水戸駅前に来て、自民党の公認をもらった別の候補(山口武平)の応援演説をやっていった。
ところが、終盤になって「どうも中村が強いぞ」という情勢になった。すると、(当時通産相の)田中さんが自民党候補の応援に来た際、何を言ったかといえば、「中村喜四郎(先代)は大変立派な政治家だった。筑波に研究学園都市を持ってきたのは彼だった。彼を失ったことは大きい」と。そう言って帰っていった。
大平さんは自民党公認候補を応援に来て、未亡人の母に対しては一言もメッセージを発しない。田中さんは未亡人に向けたメッセージを送っていく。そういうことでも人の心をつかむのが卓越していましたよ。やっぱり、人の感性に響く。選挙に対する研ぎ澄まされた感性があった。
それで、母は当選した。当選した後、母は大平派には絶対行かないということになって、田中のところに行くわけですよ。その時、田中さんは「困ったことがあったら何でも言え」と、経済的に困っているんじゃないかという感覚で言ったら、母は「頼むことはない。息子を秘書にしてくれ」と言った。でも、「それはダメだ」と言われた。
そこは田中さんの合理的なところなんです。私が秘書になるということは、将来、衆院選に出るということ。そうすると、当時の茨城3区(定数5)には赤城宗徳(当時佐藤内閣の農相)、丹羽喬四郎(同運輸相)、北沢直吉(元官房副長官)のベテラン3人がいたから、みんな敵に回すことになる。そこに登坂重次郎(同厚生政務次官)も含めれば自民党は4人いる。たった1人の子分を出すのに4人も敵に回すのはダメだ、と合理的な考え方をするんです。母はずいぶん粘ったけど、どうしてもダメ。「まあ、1回連れてきてくれ」ということで、後日、私が田中さんに会いに行った。
私は事情を聞かされ、「それなら、わかりました。私が当選しても絶対に田中派に入りません」と言ったら、田中さんは「それなら、うちに来い」と迎え入れてくれた。こうして、田中事務所に押しかけて秘書になることが決まりました。
ただし、田中さんからは「その代わり、20年も勤めている秘書が朝7時に来るんだから、その前に来い」とも言われました。私はずっと朝6時に出勤した。だから、田中さんは私が(1976年に)選挙に出る時に一つも反対しなかったし、反対しないどころか私が初当選したら「オレが教えてやったから当選した」というふうに私のことを自慢話のようにアッチコッチでされた。そういういきさつがあったんです。