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不戦条約の締結からわずか3年で起きた満州事変

 開戦から遡ること12年前の昭和4年、アメリカでウォール街の株価の大暴落が起こり、世界的な恐慌が始まりました。それまで、アメリカと世界は第一次世界大戦の反省から、二度と戦争を起こさないよう、国際連盟を作るなど平和な世界構築への動きを活発化していました。その先頭に立っていたのがアメリカのウィルソン大統領で、彼が病気で倒れた後ではありましたが、昭和3年には日本を含む15カ国で不戦条約を結んだばかりでした。

 

 ところが、大統領がフーバーに代わったタイミングでウォール街の大暴落が起こったのです。フーバーは「アメリカ・ファースト」の政策をとり、これにならってヨーロッパの各国も一気に保護主義への政策転換を行った。その結果、国際連盟は一気に力を失っていきました。

 そうした自国本位によって、欧米列強のアジアへの関心が薄れたタイミングで、日本は昭和6年に関東軍が満州事変を起こし、翌年にはあっという間に満州国を作ってしまいます。ドイツでヒトラーが政権をとったのは昭和8年ですから、要するにアメリカを初めとした各国が自国ファーストで内に引っ込んでいるうちに、世界の情勢が一気に変化し始めたわけです。

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「栄光ある孤立」を選び国際連盟を脱退した日本

 こうした動きに対して、国際連盟は日本の侵略でないかを調べるため、満州国にリットン調査団を出すことを決めます。しかし、その動きは非常に鈍いものでした。関東軍の石原莞爾を初めとして非常に頭のいい人たちは、その意味ではとても目先が利いていた。世界の情勢が内向きになりつつある状況を見て、瞬く間に一つの国を作ってしまったわけですから。

 ただ、この満州国は国際社会の中ではあくまでも日本の傀儡国家。元通り中国に返すべきだというのが国際世論でした。日本はそんな世論に従ってたまるか、独自の道を行く、とばかりに国際連盟から昭和8年に脱退します。

 

 要するにここから日本は孤立の道を歩き始めるわけですが、これについて当時の新聞は「栄光ある孤立」などと書き立てていました。我々は日本の進むべき道をこれで自由に歩める――と。