いまから100年前のきょう、1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告し、イギリスやフランスなどとともに連合国として第一次世界大戦に参戦した。1914年6月のサラエボ事件に端を発する大戦が、4年目に入ろうとしていた時期である。

 ドイツはこれより前、イギリスの海上封鎖に対抗して戦闘海域を設定し、そこでは敵国の商船に対し無警告で攻撃することを宣言していた(無制限潜水艦作戦)。だが、1915年5月にイギリスの大型客船ルシタニア号を撃沈、そのなかにはアメリカ人128名も含まれており、アメリカに強く非難される。ドイツはこれを境に、潜水艦作戦を制限するようになる。

第1次世界大戦時のアメリカ兵を描いたポスター ©getty

 しかしドイツは、1916年末に和平提案が連合国に拒否されたのを機に、翌17年2月には無制限潜水艦作戦を再開。また、メキシコに軍事同盟を結ぶよう持ちかける。ドイツはメキシコに見返りとして、戦勝した場合は、19世紀のアメリカ・メキシコ戦争で失ったテキサスなどの領土を回復すると提示していた。このことは、ドイツ外相のツィンメルマンから電報で、駐メキシコ公使に転送するよう、駐米ドイツ大使に伝えられた。だが、電文はイギリスに解読され、時のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンも知るところになる(ツィンメルマン電報事件)。3月1日にこの情報が公にされると、アメリカ世論は激昂した。

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 3月中旬には、アメリカ商船3隻が無警告でドイツ軍のUボートに撃沈された。これを受けてウィルソンは4月2日、「世界に民主主義を広げること」「領土併合も賠償も求めない平和を目指すこと」を掲げ、ついに議会に宣戦布告の承認を要求。これを受けて上院は4日に、続けて下院も6日に圧倒的多数で参戦を承認する。

 じつはこのころフランス軍の士気は低下し、イギリスも財政危機の瀬戸際にあった。それでもドイツを封鎖し続けるイギリスに対し、1916年秋にはアメリカ国内で批判が強まり、米英関係は悪化していた。それがわずか半年ほどで一変したことになる。ある歴史家は「ドイツが無制限潜水艦作戦を実施せず、アメリカを参戦させずにいたら、連合国の手によるドイツの敗北は『高い確率であり得なかった』」と指摘する(飯倉章『第一次世界大戦史』中公新書)。

アンクル・サムによる兵士募集のポスター ©getty

 しかし現実にはドイツは無制限潜水艦作戦を再開し、アメリカの参戦は連合国軍の士気をよみがえらせた。なお、アメリカ陸軍は、参戦時にはわずか11万人弱にすぎなかった。だが、1917年5月に21~30歳(のち18~45歳に拡大)の男性に兵役登録が義務づけられたことで、1年3ヵ月後には400万人もの大陸軍となる(木村靖二『第一次世界大戦』ちくま新書)。このとき、陸軍兵士募集のため掲示された、右手人差し指を突き出すアンクル・サムのポスターはよく知られる。