それでも、高校時代の私は精神科に行くことを諦めなかった。自己保有のワープロで学校教材費を水増ししてでも本代を捻出するほど、根が行動派だった私は、この程度の説得が不発に終わったことのみでは、どうしたって治療への道を諦め切れなかったのである。
精神科受診への差別と偏見
しかし1999年の春、両親、特に父の世界観に追従して私に苛烈な虐待を行っていた母は、私が保険証を無断で使うことを警戒して、保険証を家のどこかに隠し、絶対に使えないように工作をした。信じられないだろうが本当の話である。
母は自分は国からの難病指定により無料で十分な治療を受けているのに、さらには精神安定剤を処方された経験があるにもかかわらず、子供の精神疾患は無治療に処す、という矛盾極まりない態度を取りながら、それを一切矛盾だとは思わなかったのである。
それほど精神科受診へのとんでもない差別と偏見に、両親は心を蝕まれていたのである。蝕まれていたというよりも、第1章で書いた通り、私の両親は異様なほど差別的にできているのである。だから、彼らが最も蔑視する「精神科への通院・治療」を許可することなど、彼らの世界観の中では天地がひっくり返っても到底ありえない選択肢であった。
無保険・飛び込みで精神科へ
よって私は、タウンページで調べた、家から徒歩15分のところにある精神科に飛び込みで入った。当然、保険証を持たない無保険状態である。温厚な医師から、その時初めて正式に、「君の病名はパニック障害である」と告知された。
そして両親の偏見により保険証の使用ができない旨を話すと、「薬代だけで良い」と言って、無料で診察してくれた。もう名前も忘れてしまったが、私が人生で初めてかかった精神科医師の優しさは、今でも忘れていない。この場を借りて御礼申し上げたい。
しかし、私がその時薬局で処方されたのは所謂「頓服(とんぷく)薬」で、パニック障害の根本的治療にはほど遠かった。ほど遠いというよりも、ほとんど何の効果も無かった。しかしながら姑息に、私のパニック障害の発作頻度は軽減されていった。
それは前述したように、担任や体育教師、学校保健医との粘り強い交渉の結果、「教室内で最後尾の角の席を確保すること」「体育の授業は見学によって出席認定すること」「全校集会は保健室で待機すること」の三点を、私が断固たる意志で認めさせたからである。
これにより何とか私は、高校に継続して通うことができるようになった。これだけは物理的な救いだった。本当は中退してフリースクールに進みたかったのだが(当時札幌市内には、進学実績で決して普通科全日制に引けを取らない、魅力的で有名なフリースクールが一校あったからだ)。