こうやって「安全な定位置」を確保することを、他のクラスメートには「内緒」で担任が渋々承諾するまでに実に3~4か月ぐらいかかった。体育の授業は単位取得上、流石に休み続けられないので、クラスメートには「腸の病気」と嘘を言って、体育館の入り口の隅っこの、ギリギリ発作が起きない地点での見学が許可(見学による単位認定)された。これも同様に、3~4か月かかった。
理解を示してくれた教師たち
定年間際の体育教師にはパニック障害とは何なのか、それが精神的疾病なのか肉体的疾病なのかすら、最後まで識別できていないようだったが、優しい世界観の持ち主だったので私の申し出を最終的には承諾してくれた。
あとで知ったことだが、この教師は40代の時に大病を患って生死の縁をさまよったという。病む者の気持ちを、疾病の質は違うとはいえ理解していたのかもしれない。私の母とは正反対の許容度の高い教師だった。
何事にも頑強な意志を基にした徹底抗戦と交渉が必要であると、この時の体験がのちの私の強力な人生訓になった。だが、この間(かん)のことは正直、今でも思い出したくない。本当に思い出したくない。こうして克明に当時のことを書いているが、20年以上経った現時点ですら少し辛(つら)いのが正直なところ。文字通り生き地獄だった。二度と思い出したくはない漆黒の生き地獄であった。
保険証まで隠されて
さてここまで読んだ読者は「治療はどうしていたのか?」という素朴な疑問を持つであろう。当然だ。私は1998年の12月に、厳然たるパニック障害を発症していたにもかかわらず、結論からいって「具体的な治療は何一つ」できなかったのだ。いや、正確には「具体的な治療の一切を受けさせてもらえなかった」のである。
1998年冬の急性発症から陰鬱な正月を経て1999年の春にかけて、私のパニック障害の症状は最も重篤になった。「授業を受けることがほとんど困難」「体育館に入ることが不可能」「よって卒業に要する単位もどうなるか分からない」とあっては、もはや受験勉強どころではない。
この事実を、私はやむなく、理解されることが不可能と薄々予感しつつも、1999年の早い段階で両親に告白した。私の希望は次の二つ。
(1)このような症状であるから、現在の高校はやむなく退学し、フリースクールなどに転校したい。
(2)精神科に行きたいから保険証を貸してくれ。
ところが、この二つの要求は、両親によって全部拒否された。特に父親はこの時点においてなお、私が「中堅進学校の成績上位5%に入り北大に進学する」という到底実現しえない進路への幻想を持ち続けていたので、現在通学している高校の退学など、彼の卑小で差別的な世界観には全く存在しえないことなのであった。