開花するまで8年を要した森野
森野将彦が今シーズン限りでユニホームを脱ぐ。9月24日、本拠地ナゴヤドーム最終戦にて21年間のプロ人生にピリオドを打った。今回の引退劇、打撃陣のご意見番としてベテランの力をまだまだ発揮してもらわなくては困ると思っていただけに至極残念な知らせであった。
森野といえば、ルーキー年が1997年だったため、その年開場されたナゴヤドームの申し子となるよう、ドラゴンズ新時代を築くスラッガーとして成長することを期待されていた。入団当時、二軍がよく使用していた知多郡名鉄阿久比グラウンド(現・阿久比スポーツ村野球場)にて同じ高卒ルーキーの幕田賢治外野手(既に退団)とウォータータンク等荷物を慣れない手つきで運んでいたことがつい昨日のことのように思い出される。とにかく目が大きくて可愛らしい男の子という印象だった。
デビューは鮮烈そのもの。1年目の6月には待望の一軍入り。そして8月29日の初スタメンでヤクルト・ブロス投手からライトスタンドへ運ぶプロ入り初アーチを記録する。そのままとんとん拍子でレギュラー奪取かと期待したものの、プロの域に達していなかった守備が足を引っ張り、8年の月日を要し、ようやく2005年のシーズンからスタメンに名を連ねる回数が増え始めた。それは、それまで森野の前に大きく立ちはだかっていた立浪和義の姿を捉えたことに他ならなかった。そう、立浪超えが森野を自他ともに一流のプロ野球選手として認めさせた証となったのだ。それ以降の活躍はご存知の通り。チーム事情のためにピッチャー、キャッチャー以外の7ポジションを守り、打順も1番から8番まで経験したまさにマルチプレイヤーとして、またミスタースリーランと異名がつくほどチャンスに強いバッターへと成長を遂げていった。
森野と同じ道を歩む? 高橋周平
ドラフト2位入団から苦節8年でレギュラーポジションを奪った森野の野球人生を改めて思い返し、一人の悩めるスラッガーが頭に浮かんだ。誰もが簡単に想像できよう、高橋周平である。
神奈川県出身で互いに東海大学系列高校の出身。高校屈指のスラッガーとしてプロ入り。プロの壁にぶち当たり、なかなかレギュラーの座を掴めずシーズンを送りながら、幾度も背番号を変更している右投げ左打ちの内野手とくれば似ているとか似ていないとかの問題ではなく、もはや周平は森野の生き写しと表現されてもおかしくない稀有な後輩だ。
ただこの二人にはある一点だけユニークな違いがある。背番号3を受け入れたか否か。森野は偉大なる立浪の背番号であり、背負うのは時期尚早であると球団からの背番号変更の打診を断ったという。周平は結果として受け入れた。私見だが背番号3を固辞した森野のまだまだ現状に甘んじることなく技を磨き続けていくプロ意識が、イコール周平との差と感じたものだ。