残忍な場面が多い理由
デビュー作の『鰐 ワニ』のヨンペは、漢江に飛び降り自殺した死体を隠しておき、探してほしいという遺族からお金をせびりながら生きていく詐欺師浮浪者だ。サンダンス映画祭やブリュッセル映画祭で受賞し、キム・ギドクを世界に知らしめた『魚と寝る女』(2000年)や、韓国内で最も高い評価を受けた映画『春夏秋冬そして春』の主人公は殺人者だ。福岡アジア映画祭のグランプリ受賞作『悪い男』(2001年)のハンギはやくざだ。ベネチア映画祭受賞の『嘆きのピエタ』のガンドはサラ金業者の手下である。
一方、ヒロインは大半が売春婦だ。このため、彼の映画には人間の野蛮性が極大化され、残忍な暴力場面や女性を虐待する性的描写が頻繁に登場し、常に「精神的に問題がある監督」「百害あって一利なしの監督」「強姦映画の監督」という酷評が付きまとった。このような評価に対して、キム・ギドク監督は『キム・ギドク、野生あるいは贖罪羊』(2003年、幸せな本を読む出版社)で自筆手記を通じて次のように抗弁する。
「私は告白する。キム・ギドクの映画は本当に悲しい映画だと…本当に美しい映画だと…本当に熾烈な映画だと…女を軽蔑する映画ではないと…。私はただ女と男という思考ではなく、人と人との関係から出発した映画だと思う」「私の映画の中には傷ついた人々、普通で言う下層階級がたくさん出てくる。私はそういう人たちをたくさん見てきたし、彼らの人生の中の力強い生命力を映画で表現したかった」。
2012年のベネチア映画祭のグランプリ受賞直後に受けたインタビューでは、次のように説明した。
「私の映画にはやくざや遊女など社会の一番下でもがいている人たちが登場します。彼らはお金や権力をもっている人たちが決して経験できない境地に至っている、彼らが見ている世の中こそとても正確だろうと思いました。彼らの荒い行為を通じて韓国社会の持続する桎梏(しっこく)を見せようとしたのです」「私の映画の終わりで、そういうのも人生だという結論を下します。私たちの生きる人生そのものは自虐・加虐・被虐が車輪を形成して動くのではないでしょうか」(2012年10月22日「ハンギョレ」インタビュー記事より)。
キム・ギドク監督が韓国映画界で非主流に止まらざるを得なかったもう一つの理由として、彼の生い立ちや学歴に対する韓国社会の冷たい視線が存在する。「(キム・ギドクに対する低評価は)韓国映画界ではなく、韓国メディアの二重的態度によるものだ。マスコミは『それらしく見える人』を持ち上げる習性があるが、特に韓国映画界には学歴資本というものがある。(韓国メディアが絶賛する)ポン・ジュノ監督やパク・チャンウク監督は名門大学出身であるのに対し、キム監督は事実上無学だ。その意味でキム・ギドクは『血統の悪い監督』であり、その上、映画の中の表現が強すぎる点も評価を低くさせた。彼がこうした点を糾弾すれば、マスコミからまた烙印を押される悪循環があった」(チェ・グァンヒさん)。
1960年、慶尚北道・奉化(キョンサンブクド・ボンファ)で生まれたキム・ギドクは、貧しい環境のため、小学校卒業後、公式学歴として認められなかった農業学校を出て、ソウルの工業団地を転々としながら、工場労働者として生活した。『嘆きのピエタ』の舞台となった清渓川(チョンゲチョン)は、彼が15歳の時、工場生活を送っていた場所でもある。
学校に進学した同年代に劣等感を感じていたキム・ギドクは、現実から逃れるかのように、20歳で海兵隊に志願し、下士官として5年間服務する。除隊後は神学大学に進学し、牧師になることを夢見て、視覚障害者福祉施設で視覚障害者の母親と一緒に生活する。1990年、30歳のキム・ギドクはもう一度現実から逃げるようにパリへ絵画の勉強に発った。街の画家として活動してきた彼の人生を変えたのは、パリで見た2本の映画だった。