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利用者数「1日に3000人程度」の中心地の駅

 では、大津の中心市街地はいったいどこなのか。大津駅から辿っていくと、駅の西側から北に延びる商店街を抜け、10分から15分ばかり歩いたところだ。同じように中央大通りを琵琶湖に向けて下っていっても似たようなものだが、とにかく琵琶湖の湖畔、鉄道駅でいうと京阪びわ湖浜大津駅(京津線によって京都の中心市街地と結ばれている)付近が大津の古くからの中心である。

 
 
 

 賑わいの有無は別にしてアーケードの商店街も、そして琵琶湖の脇の公園やリゾート施設、そして観光船ミシガンクルーズが出港する大津港も、そして人通りの多さも、浜大津のほうが勝っている。

 
 
 
 

 公園として整備されている琵琶湖の湖畔に立って、あたりを見回してみると、琵琶湖に張り付くようにして大きなマンションが建っているのがよく目立つ。時折豪快なモーター音が聞こえてくるが、ボートレースびわこでちょうどレースが行われているからだろう。

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 いずれにしても、県都の中心市街地らしい賑わいは、JRの大津駅前ではなく京阪のびわ湖浜大津駅付近といっていい。

 

 とはいえ、びわ湖浜大津駅のお客の数は1日に3000人程度。大津駅は1万5000人を超えているから、お客の数という点でみると大津駅の方が優勢なのだ。いったい、大津という町を鉄道駅の観点で見ようとすると、どこに中心軸をおけばいいのか見当がつかない。これはどういうことなのだろうか。

京都・大坂方面との往来では嫌でも通らねばならない場所だった「大津」

 こうした疑問の答えはたいてい歴史に見つけることができる。というわけで、毎度のごとく時計の針を巻き戻し、大津の町の歴史をたぐってみることにしよう。

 琵琶湖の南の付け根の町・大津は、古くから港町として栄えてきた。天智天皇の時代には、約5年ばかりの短い期間だったが大津京が置かれていたこともある。秀吉の時代には大津城が築かれ、関ケ原の戦いでは東軍と西軍が激突した大津城の戦いの舞台にもなっている。大津城の跡地は、びわ湖浜大津駅付近の琵琶湖畔の一帯だ。

 江戸時代に入ると大津の町は幕府の直轄領となり、大津百艘船と呼ばれる琵琶湖水運の特権を獲得。美濃・越前方面と京都・大坂方面を琵琶湖水運を介して結ぶルート上に位置し、物資の集積地として存在感を高めていった。琵琶湖に面して幕府や諸藩の蔵が建ち並んでいたという。

 のちに西廻り航路が整備されると物資集積地としての存在感はやや薄らいだが、東海道と北国街道が分かれる宿場町として、そして三井寺の門前町としての顔も持ち、近世の大津は“大津百町”と呼ばれるほどの大都市だった。

 湖上交通も陸上交通も交わる要衝で、京都・大坂方面との往来では嫌でも通らねばならない地点であるから、大きな都市が形成されるのも必然だったのだろう。ただ、逆から見れば“城下町”“宿場町”といったひとつの顔ではなく、複数の顔を持つ町だったことが、後年町の軸が見えにくくなることにつながってしまったのかもしれない。