20年で4倍以上…「南越谷」の“人口爆発”
しかし、期せずして乗り換えターミナルを手にした越谷の町は、ここから急速に発展してゆく。地下鉄直通列車もあって東京都心まで1時間かからないという利便性、加えて武蔵野線によって東西に動くこともできる。大宮方面・松戸方面への移動も実に便利だ。そうした場所に設けられた駅が、大発展するのはごく自然ななりゆきだった。
越谷市の人口は1960年代から70年代にかけて爆発的に増えている。1960年は約5万人だった人口が、1980年には約22万人。その後も増加を続け、今では約34万人まで増えた。
南越谷駅周辺も瞬く間に宅地化が進み、駅の近くには商業ゾーンも形成される。南越谷駅南東、サンシティ越谷の脇にあるイオンは、1979年に開業したダイエー南越谷店がルーツ。獨協医大がやってきたのは、1984年のことである。
「貨物列車のための路線の中の小駅」50年後の未来
こうして南越谷駅周辺は、瞬く間に田園地帯からベッドタウンへと変貌していった。たくさんあった田んぼはほとんど消えて、おかげで増水時の遊水機能が損なわれてしまい、そこで大きな調整池が設けられた。その周辺に広がっているのが、いまの越谷レイクタウンである。
また、この大発展の過程の1985年には、1回目の南越谷阿波踊りが開催されている。駅前広場には阿波踊りの像が建ち、旧日光街道と駅前大通りの交差点のビルの脇には南越谷阿波踊り発祥の由来が記された碑もあった。
それによると、当地の実業家・中内俊三さんが地域への恩返しのために故郷徳島の阿波踊りの開催を呼び掛けたのがはじまりだという。
中内俊三さんは、ハウスメーカー・ポラスの創業者。件の碑があるのもポラス本社の一角だ(ちなみにポラス、英文ではPOLUSと書く。どこかで見たことが……と思ったら、浦和レッズのユニフォームに大きく書かれているアレだった)。いまでは関東三大阿波踊りのひとつとして名高いわけで、何が名物になるのか、やってみなければわからない。
ともあれ、いまでは南越谷駅には昼間でも10分間隔で電車が来るようになったし、東武の新越谷駅にしても急行の停車駅に出世した。東武の急行も武蔵野線と同じ、10分間隔である。気がつけば古くからの町の中心だった越谷駅を凌駕するターミナルにまで育ったのである。
かくして、高度経済成長期に誕生した貨物列車のための路線の中の小駅は、ベッドタウンのターミナルとして存在感を放っている。南越谷駅、ただの乗り換え駅ではないのである。
写真=鼠入昌史
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