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 禁門の変とは過激な尊皇攘夷で京都から追放されていた長州藩勢力が、京都守護職だった松平容保、徳川慶喜ら幕府軍に挙兵。京都市中で大砲を撃つなど激しい戦闘の結果、幕府軍が勝利した闘いだ。

 しかし、徳川慶喜は1867年に大政奉還。その後、会津にもどった容保は新政府軍と戦うが、降伏し、鶴ケ城を開城。それ以降、松平家は東京に居を移したが、歴代藩主、当主らは会津若松市の広大な山中にある松平家の墓所、「院内御廟」に埋葬されている。

 稲葉家と松平家の共同使用のきっかけを正輝氏はこう振り返る。

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分骨を機に墓を共同使用に

「おじに生前、『歳を取ると会津への墓参りはつらい。稲葉家の青山霊園の墓所にうちも分骨させてほしい。松平には継承者がいるので稲葉家のお墓も引き継ぐ』と言われた」

 おじの松平保定氏はしかし2011年に死去し、約束どおり青山霊園の稲葉家の墓にも分骨された。「稲葉家は私の代で途絶えるが、墓はできる限り、引き継いでほしい」と正輝氏は話す。

 会津松平家の現当主(14代)の保久氏(69歳)は「父は正輝さんと仲がよかった。稲葉家の墓はできる限り、松平家で守っていきたいと思っています」と語る。

 都立霊園を管理する東京都公園協会によると、墓の承継の主な条件は、(1)祭祀主宰者であること、(2)原則として使用者の親族であることなどだ。

 会津松平家の墓所も前述した池田家と同じ問題を抱える。

 最後の藩主・容保の墓所までは史跡として公有化され、会津若松市が保全、管理しているが、明治以降の歴代当主らの墓は松平家個人が管理していかなければならない。長年務めたNHKを定年退職後、保久さんは年に何回かは都内から会津へ戻るという。

「父の時代より交通の便もよくなり、里帰りは今のところ、そんなに大変ではない」

 15代目となる長男はいま、会津若松市でコンサルタントの仕事をしているという。「将来的に息子が会津にとどまるか、わからない。私は墓がその家の歴史や先祖、ふるさととのつながりでもあると思っています。大事にしていきたい」