最後の講演で語ったこと
最後の講演で紹介した子どもの一人が、東大阪市の嘉朗君(よしろう)だ。
1993年に生まれてすぐ、ミルクを激しく吐いた。息づかいもおかしい。体調は戻らず、母は各地の病院を回る。「こんな体に産んでしまって」と自分を責める母に、3歳の嘉朗君は言った。
「病気やからって悪いことばっかりちゃうねんで。病気やからわかることもあるんや」
母はこの言葉に、自分を責める気持ちが息子を苦しめていたと知る。
4歳で原発性免疫不全症と診断された後、間質性肺炎、再発性多発性軟骨炎など次々と難病に襲われる。学校にもあまり通えない。それでも大阪の子らしく、調子に乗っては、周りを笑わせた。
さい帯血による造血幹細胞移植手術のため9歳で東京の病院に移り、しばらくして詩を書き始めた。入院生活が2年を過ぎたころだ。疲れた母がベッド脇でうとうとしていると、パソコンに何かを書いていた嘉朗君が「後で読んで」と言って眠った。夜中にパソコンを開くと、こんな詩が書かれてあった。
〈いま、おいらにつばさがあれば/病気を治して/ママをいろんなところへつれていってあげたい。/いっつも看病してくれているママ。楽しいところへ、わくわくするところへ/つれていってあげたい。/ママ、もうちょっと待っててね。病気を治したら、絶対にしあわせにするから。/それまで待っててね。〉
子どもは病魔に襲われても他者へのいたわりを忘れない。自分のことで精いっぱいのはずなのに、周りの者を気遣う。
嘉朗君は日ごろ、母にこうも言っていた。
「20歳になったら恩返ししたるから、それまでは世話してな。ばばあになったらおしめも替えたるから」〉(「週刊文春」7月25日号より)
嘉朗君が残した詩編の数々と闘病の日々、大野さんが講演会で語ったこと、そして「最期のプロジェクト」の行方について――。記事全文と大野さんへの独占インタビュー動画を「週刊文春電子版」で無料公開している。