――番組製作後にハルエさんの周囲で起きた変化、そして玲子さん自身の変化を撮影されたことで、映画の製作へと徐々に心が決まっていったんですね。
松原 ハルエさん自身の人生をもっと描きたいなという思いもありました。彼女は満州から日本に戻ったあと、「性接待」の犠牲者になったために故郷の黒川にいられなくなり、当時荒地だった「ひるがの」で一から開拓に従事したという、凄まじい経験をした人でもあるんです。日本全体が高度経済成長だと盛り上がっていたときに、彼女は山の木を一本一本切って、根っこを掘り返し、手ぐわで開拓して畑にしていった。ただ、戦後開拓で払い下げられた土地ですから土壌が悪い。米も作物もなかなか育たず、ひるがの開拓は最終的に酪農に切り替えたことでどうにか産業として維持できるようになっていった。そういうハルエさんの苦難や逞しさも撮っておきたいなと思い、改めて撮影のお願いをしました。ところが、その後彼女は体調を崩し寝たきりの状態になってしまった。残された時間はもうわずかかもしれないと、宏之さんと、いつもハルエさんを支えていた安江菊美さんとお見舞いにいったら、それを待っていたかのように、ハルエさんは私たちが到着してわずか10分後に亡くなられました。そのときに、私はこの人の残したものを形にしないといけない、とはっきりと思いました。
考えてみると、ハルエさんは元々そういう人だったんです。ふだんはよく笑う可愛らしいおばあちゃんなんですが、取材を始めて満州の話になった途端、がらっと変わって真剣な表情になるんです。決して「あなた、この話をちゃんと世に出しなさいよ」と強く言うわけではないけれど、本当に真摯に、真剣に話をする姿を前にしたら、自然と「自分も何かせねば」という気にさせられる。映画のなかで、授業で黒川のことを教えている高校教師の方が言っていましたよね。ハルエさんの話を聞いた以上自分も伝えなければ生徒にとってはなかったことになってしまうからって。私もまったく同じ気持ちでした。なぜ映画にしたのかと言われたら、ハルエさんたちに突き動かされたとしか言いようがないんですよね。



