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47年前に最後の村人が下山……東京奥多摩の廃村「峰」で27歳まで暮らした旧住人が語る“あの頃の生活”

都心から日帰りで行ける廃村巡り #2

2019/10/26

genre : ライフ, 歴史,

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 Tがカメラを取り出し、先ほど峰の跡地で撮影した写真を見せた。「これは防火水槽じゃないかな」。“最後の住人”の巨大なガマガエルが足をかけていた場所だ。

 集落を維持するには、一定数の子供があまり間隔を開けずに生まれなければならない。結婚はどうしていたのだろうか。「資力のある家には下から嫁が嫁いできていたが、そうでもない場合、年頃の男や娘は峰を出て下で見つけるしかなかったね」

ここは防火水槽だったようだ

「普通の日本人だよ。唯一違ったものといえば……」

 資力は林業を通して蓄えるしかない。ところが、高度成長期を経て日本の産業構造が変わり、その林業が左前になれば、生活は厳しくなるばかりだ。当然、集落の存続も危うくなるだろう。「下山してしばらくは、集落の仲間同士で定期的に会って、日天神社(峰集落の中心にある神社)のお祭りもやっていたようだが、さすがに人が減り、高齢化も進んで、20年以上前に解散したんじゃないかな」

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 先祖代々の長きにわたり、あの山中で暮らしていた人たちと聞けば、独特の風貌や風習を持つ、いわゆる“山の民”のような姿を想像してしまうが、その予想は正しくなかった。

「峰」の中心に佇む日天神社
家は全て崩れていた

「俺たちと変わらない、まったく普通の日本人だよ。そうだなあ、唯一違ったものといえば、正月飾りだ。このあたりの家は松を材料にするんだが、峰ではなぜか檜(ひのき)だった。山を下りてきてからも、正月に檜を飾っている家があれば、ここは峰の者なんだとすぐにわかった」

学校や職場を求めて“下山組”が増加

 先述した民俗学者の牛島盛光は、「峰のその後」については以下のように、軽く触れるにとどまっている。すなわち、柳田が訪問した1899年から1931(昭和6)年までの約30年間で峰の世帯数はほぼ倍増し、1956(昭和31)年には電気も引かれた。ところが、この頃が峰の最盛期で、そこから坂道を下るように集落の衰退が始まった。翌1957(昭和32)年を皮切りに、下山組がどんどん出てきたのである。

 原因はいくつかある。まずは働き口だ。山の中での仕事は林業や狩猟などごく限られている。職を下界に求めれば、自然に山を下りることになる。

 また、生活の不便もある。峰には水田がなかったので、米や醤油、塩、衣料雑貨などは下山して定期的に購入しなければならない。自給自足できるものはたかが知れている。電気が引かれテレビもあったわけだから、ますます便利になる下界の文明生活を羨む気持ちも抑えきれなかったに違いない。

生活の痕跡は今も残っている
「峰」へたどり着くには片道1時間の山登りが必要だ

 さらには子供の進学問題がある。山から歩いて往復できる範囲になると、行ける学校は限られてしまう。子供の将来を思えば、もっと便利なところで教育を受けさせたいという親心を持つのは当然だ。

 そして今から47年前の1972(昭和47)年に最後の住人が下山し、550年あまり続いた峰の歴史はそこで終わりを告げた。