「最後の陸軍二等兵」は戦争責任を追及し続けた
読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄が、昨年12月19日、「昭和100年」「戦後80年」を目前にして死去した。各紙誌やテレビ、インターネットのニュースなど様々なメディアには「終生一記者」「政界への影響力」「球界のドン」「メディアの独裁者」といった言葉が掲げられ、それぞれの立場から死亡記事や追悼文が書かれていた。実際に渡邉は多様な貌を持っていたと言えるが、今回私は、「歴史家」としての渡邉を語りたい。渡邉はジャーナリストであることを超えて「歴史家」であった。それはどういうことか? 死亡記事を読みながら、私の脳裏には別の光景が浮かんでいた。それは、渡邉がリュックサックに火薬を詰め込んで、相模湾から上陸してくるアメリカ軍戦車に体当りする特攻訓練をさせられる、1945(昭和20)年の姿であった。

渡邉は1926(大正15)年に東京府で生まれている。太平洋戦争で最も多くの死者を生んだ1922(大正11)年から1924(大正13)年生まれの「戦争要員世代」よりわずかに下であるが、本土決戦時に「特攻要員」として命をなげうつ役割を強いられていた世代に属する。
高校で校長らを襲撃
渡邉は開成中学から旧制東京高校に進み、その時期すでに反軍国主義的な意志を育んでいたという。時局に迎合して突如「東京高校は陸軍幼年学校である」などと訓示するようになった校長の哲学者・藤原正ほか、軍国主義を鼓吹する教官、体操教師、生徒監を、1年生11月の記念祭のときに襲撃し、首謀者の一人として退学願を書いた。すると、同級生や上級生、襲撃に関わっていない者も含めて47人が「私が殴りました」と名乗り出て、連判状を書いて退学願を出したというのである。大人数になったため学校側も手出しができなくなり、渡邉は無罪放免となる。
このエピソードを私は対談の際に渡邉から直接聞いたのだが、その表情からは、無責任な軍国主義体制への怒りと、それに対峙した学友同士の結束を改めて確認するような感触が伝わってきた。私との対談で、旧制高校時代を回想したあと、渡邉はこう言っている。
《中学時代から「軍人勅諭」を暗唱しろなんて言われたが、そんなばかなことはやる必要がないと思って、読んだこともなかった。/「軍人勅諭」や「戦陣訓」で説かれていることは、下の者は上の者に絶対に抵抗してはいけない、上の者は下の者をいくらぶん殴ってもいいということに尽きます。そういう精神風土が日本軍全体にあり、みんな徹底的にそういう暴力的なしごきを受ける。兵というのは「1銭5厘」、どこで殺そうが死のうが構わないという人命軽視の哲学──哲学なんて立派なものではないけど──から、特攻とか玉砕という思想が出てくるんですね》(「『戦争責任』とは何か」、『論座』2006年11月号)
軍国主義を嫌悪した自らの過去を見つめながら、特攻や玉砕に行き着いた昭和戦争期の時代精神がいかに非人間的で暴力的であったか、日本の軍事主導体制の本質を射抜く言葉と言える。1945年、渡邉は東京帝国大学文学部哲学科に入学した直後に陸軍に召集されて二等兵となり、終戦を迎えた。
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