彬子女王と母信子妃 決裂の瞬間〈三笠宮家分裂の凄まじい内幕〉

秋山 千佳 ジャーナリスト

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娘は訴えた「母は皇族にふさわしくないから父と離婚させてください」

 優に7センチはありそうなハイヒールに、ワインレッドのワンピース。左右の薬指に大きな宝石の指輪をはめた手は、お声がけをしながらの身振り手振りや指差しなどでしきりに揺れ動き、華やぎを振りまく。

 ヒゲの殿下として知られた寬仁(ともひと)親王(2012年に薨去〔こうきょ〕)の妃である信子さまが10月、鹿児島県を訪れ、農業の担い手たちと交流された際の様子だ。傍の県職員が手にする書類の表には、こう大書されていた。

「三笠宮寬仁親王妃信子殿下」

 寬仁さまは生涯、三笠宮の宮号を名乗らなかったが、妃の信子さまに三笠宮とつくのには理由がある。

 これに先立つ9月30日。宮内庁は、寬仁さまの第一女子・彬子(あきこ)さまが当主不在となっていた三笠宮家の当主となり、信子さまは同家を1人離れて「三笠宮寬仁親王妃家」を創設、当主となると発表したのだ。

 1889年の旧皇室典範制定後、未婚の女性皇族が宮家の当主となるのも、皇族妃が夫の死去後に宮家を創設するのも、前例のないことだ。皇室史に残る決定であり、三笠宮家が母と娘で分裂するという異常事態でもある。

信子さま Ⓒ文藝春秋

 だが宮内庁は、記者会見で「宮家の中で話し合われた結果」「内輪の話」「(宮内庁が)直接的に関わるということはございません」という説明に終始した。経緯が曖昧なまま報じられることで、2人の当主が生じることによる皇族費増額というわかりやすい変化に国民の目が集まり、批判が上がる結果になっている。

 こうした宮内庁の対応に、かつて昭和天皇の母・貞明皇后をして「私の生まれ変わり」と言わしめた元内親王が疑問を唱える。

「まさか三笠宮家でこのようなことになるとは、思いもよらないことで残念です。いつもは取材をお受けしないのですが、今回ばかりは事実が正確に伝わっていないように思いましたので」

 寬仁さまの姉、近衞甯子(やすこ)さんだ。静かな話しぶりだが悲憤がのぞく。

 実は、決定に至る過程で、結婚して三笠宮家を離れた近衞さんも、妹の千容子(せんまさこ)さんとともにこの分裂劇に巻き込まれている。詳細は後述するが、三笠宮家の中で話し合うことなど不可能なほど深刻な溝が残ったままであり、宮内庁が公にした今回の決定には違和感があったようだ。

 そもそもこの異常事態は、今に始まったことではない。

「ヒゲの殿下」と麻生家の縁談

 三笠宮家の分裂を理解するには、寬仁さまの生前からのファミリーヒストリーを遡らねばならない。

 寬仁さまは1946年1月、大正天皇の第四男子である三笠宮崇仁(たかひと)親王と百合子妃の第一男子として誕生した。父の三笠宮さまは軍人から戦後に古代オリエント史の研究者へと転じ、皇室で初めて一般家庭と同じように親子一緒に暮らした。

 学習院高等科時代には早くも、「ヒゲの殿下」として終生のトレードマークとなる髭を蓄えるようになり、酒やタバコも愛飲していたと自身で明かしている。1968年に学習院大学を卒業した寬仁さまは、同年4月から2年半にわたり、英オックスフォード大学に留学した。

 留学を機に関係が深まったのが、やがて姻戚となる麻生家だ。

 寬仁さまの著書第一作『トモさんのえげれす留学』(1971年)には、麻生家の人々が頻出する。

 イギリスでの保証人の人選に奔走したのは、吉田茂の三女・麻生和子氏だった。寬仁さまがイギリスへ発つ当日には、秩父宮邸で長女雪子氏を伴いお茶を共にし、空港では夫の太賀吉(たかきち)氏(後の麻生セメント会長、衆院議員3期)と見送りに立った。

 

 1969年には和子氏の三男の泰(ゆたか)氏(現・株式会社麻生会長)が留学のため渡英してきて、寬仁さまと同じ家で暮らすことになった。同書では次のように紹介している。

「彼のお家の方々は皇室、皇族に近く、それらに対するしっかりした考え方をもっておられる数少ない一家である」

 さらに留学中、和子氏の長男で、現・自民党副総裁の太郎氏と話したことを、寬仁さまは『皇族の「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」』(工藤美代子氏との共著、2009年)で回想している。

「私の部屋で一緒にウイスキーを飲みながら語らっているうちに、『殿下のご結婚相手は、うちの妹ぐらいしかいませんよね』という話になったんです。いま彼にその話をしても、『そんなことはいっていません』ととぼけるんですけれど(笑)」

 その妹こそが、麻生家の第六子で末っ子の信子さまだ。

「そこまで殿下がおっしゃるなら」

 1955年生まれの信子さまは、聖心女子学院初等科・中等科を卒業し、1971年、上流階級のマナーなどを教えるイギリスのフィニッシングスクール、ロスリンハウス・コレッジに留学。73年に帰国した。

 その頃27歳だった寬仁さまは、伯父の高松宮さまに「お前はどうして結婚しないんだ。あれだけ麻生の家と仲がいいだろう。麻生家にはまだ独身の娘がいるはずだ」と背中を押され、信子さまとの結婚を麻生家に申し込んだ。

 ところが、麻生家の反応は思わしくなかった。寬仁さまは共著『いのちの時間』(1995年)で、こう語っている。

「先方の両親や家族に、彼女は身体障害者でもあり心身障害者でもあるので妃殿下にはとても無理ですと反対されて、7年間没交渉になりました」

 実際は和子氏からの強い辞退だったと、他の著書に記されている。和子氏の真意は不明だが、寬仁さまから直接この話を聞いた関係者によると、和子氏の返事は直截で、寬仁さまの心に刻まれたらしい。

寛仁さま Ⓒ文藝春秋

 寬仁さまは当時、ライフワークとなる障害者福祉に取り組むようになっていた。

 1973年頃から薨去までともに動いた1人が、白江浩・社会福祉法人ありのまま舎理事長だ。きっかけは身体障害者福祉ホームの建設運動や法人格取得への助力をお願いしたことだったと白江氏は振り返る。

「全国を駆け回って資金集めなどにご尽力いただいた経緯から、法人の総裁になっていただきましたが、決して名誉職ではありません。“現場監督”と称してチラシの一言一句や催し物の席順までチェックを入れてくださり、我々が反対意見を言うことも含め議論を大変好まれた。『立っている者は皇族でも使え』とおっしゃり、非常に対等な関係性でした」

 常日頃「100%の障害者も100%の健常者もいない」と語り、障害の有無にかかわらず自然体で声をかける姿勢が一貫していたという。寬仁さまは一時「皇籍離脱」を宣言して物議を醸したことがあるが、宣言の理由は、障害者福祉などに専念したいというものだった。

「そこまで殿下がおっしゃるなら、結婚を認めましょう」

 麻生太賀吉氏が折れたのは、寬仁さまが二度目の結婚のお願いに麻生家を訪れた時だった。その際、寬仁さまは「あなたたちみたいな福祉の素人が育てたから失敗したので、私のような障害者福祉の玄人が育てたら治ります」と訴えたと、『いのちの時間』で述べている。

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source : 文藝春秋 2025年12月号

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