民間から初の皇太子妃誕生に尽力した、東宮御学問参与の小泉信三(こいずみしんぞう)(1888―1966)はもともと皇室に縁があるわけではなかった。戦争が終わり、長男の戦死、空襲による大やけどなどで失意の大学教授と皇室との間に生まれた縁を、次女の妙(たえ)さんが振り返る。
父、信三が慶応義塾の塾長に就任したのは昭和8年、45歳の時です。当時どこの大学の総長より若く、新聞に大きく報じられました。もともと経済学者で、ゼミの指導教官として、また庭球部の部長として若い学生と付き合うのが大好きな、根っからの教育者でした。
毎週木曜日の夜7時になると、自宅には大勢の学生が集まりました。父はそういった席で人を楽しませるのが上手でしたから、参加する学生さんはどんどん増えた。多い時は50人くらい来たので、祖母は天井が落ちると心配したくらいです。父がいつもの大きな声で何か言うと皆が笑って、「ゴー」と風が鳴るような音が家中に響きました。
いまの陛下(現上皇陛下)がお生まれになったのが塾長就任直後だったので、父はシルクハットをかぶってお祝いの記帳に出かけています。それが恐らく皇室との初めての、縁といえば縁でした。まさか将来、その方の御教育掛になるとは思いもよらなかったでしょう。

もちろん明治生まれの人らしく、皇室のことはとても大切に考えていました。戦争中は小磯、米内内閣で内閣顧問も務めていたこともあって、「陛下(昭和天皇)はお気の毒だ」としょっちゅう話していた。「お酒を飲みながら、こうやって話すことが大事なのに、陛下にはその相手がいらっしゃらない」と。
そんな父が終戦後、東宮御学問参与を仰せつかりました。本人はいずれパージ(公職追放)される身だと思っていたようですが、学習院院長の山梨勝之進氏(元海軍大将)が、殿下のお傍には不幸にあったことのある人がおつきすると良いと言われたそうです。
戦争中わが家では不幸が続きました。兄信吉(信三の長男)は、昭和17年に24歳で戦死。昭和20年には空襲で自宅が全焼し、逃げ遅れた父は顔と両手に大やけどを負いました。包帯を取った後の父の顔を見て私が「案外いいじゃないの」と言ったから、父が喜んでいたと母から聞きましたけれど、本当はその変わりようにびっくりしたのです。
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source : 文藝春秋 2013年1月号

