「戦争の真っ只中です――」。休暇中の編集部員から届いたのは、そんな緊張感に溢れるメッセージだった。
アメリカとイスラエルによるイランへの攻撃を受け、イランの報復攻撃が中東各地で続いている。その影響で航空便が欠航し、多くの日本人が現地で足止めされている。
休暇中の「文藝春秋」編集部員もその一人。カタールの首都・ドーハで足止めを余儀なくされた。3月1日にはイランによる爆撃と避難も経験し、現在はホテルに避難している。現地の様子を緊急レポートする。
「絶対に外出を控えるよう」スマホから警報音が鳴り響いた
2月28日(日時は現地時間、以下同)。経由地であるドーハのハマド国際空港から、カタール航空の飛行機でウィーンに向かっていた。「文藝春秋」編集部では年に一度、部員が交代で1週間ずつ休暇をもらえる。私は異動してから初めての休暇で、ヨーロッパ旅行を計画していた。午前9時10分、約130名を乗せた飛行機は離陸した。
「I apologize to return Hamad International Airport because of air space.」
離陸してから1時間も経たないうちに、機長のアナウンスで目を覚ました。何度も謝っている。フライトマップを見ると、イランの上空を飛んでいた機体がドーハに引き返す航路を取っていること気が付いた。窓の外を見ると、まだ出発していないのかと錯覚を起こすほど、低空飛行をしていた。
急いでスマホをWi-Fiに繋ぐと、午前10時5分に「イスラエル、イラン攻撃を発表」(共同通信)の文字が躍っていた。ドーハから東に向かっていた飛行機は、「air space(領空)」の関係で、イラン上空に入ることができず、引き返していたのだ。

ドーハに着陸したが、機内から外へ出してもらえない。ほぼ満席の機内に、日本人はほとんどいない。アナウンスもないため、どうしようかと周囲を見渡すと、乗客たちは自由にトイレに行き、コーヒーやポテトチップスを客室乗務員からもらっている。私も負けじとトリュフ味のポップコーンを受け取った。

12時を過ぎ、ようやくドーハ・ハマド国際空港のロビーに戻り、ベンチに腰掛けた時だった。
周りのスマホから、一斉にアラート音が鳴りだした。日本で鳴る緊急地震速報とは違う響きだが、耳から離れない恐ろしさがあるのは同じだ。私も急いで画面を見ると、黄色い警告とアラビア語が表示されている。
「التأكيد على الجميع الالتزام والتقيد بالبقاء في منازلهم أو
في مكان آمن، وعدم الخروج إلا للضرورة القصوى وذلك
لحين زوال الخطر」
当然ながら、まったく読めないのでGoogle翻訳に読み込ませた。
「危険が去るまで、誰もが自宅または安全な場所に留まり、絶対に必要な場合を除き外出を控えるよう強く求められています」

あたりを見ると、みな一斉にスマホにかじりついている。
カタールには、アル・ウデイド空軍基地というドーハ南西に位置するアメリカの軍事基地があるほか、石油関連のエネルギー施設も多い。イスラエルとアメリカがイランを攻撃したため、イランが周辺の中東諸国へ報復攻撃を開始したのだ。
あと3時間のフライトで、目的地のウィーンに辿り着くはずだったのに……。“ドーハの悲劇”とは、まさにこのことだ。
充電に一苦労、ホテルは満室
長期戦になることを覚悟し、私は空港内のエリアを移動してコンセントを探すことにした。ゴミ箱横の狭いスペースで、韓国人のおばあさんとコンセントを融通し合いながら、手持ちの電子機器の充電を満タンにしていく。
ロビーにある小さなカフェでは、店員さんがまったく焦る様子もなく、オーダーされたカフェラテを作り、パンを温めなおしていく。いつ食料不足に陥るか分からないため、私も水、スニッカーズ、パンなどを購入した。ゴミ箱の横で立ちながらパンを食べる。
日本にいる家族からの連絡で、さらに詳しいニュースを知った。翌3月1日のドーハ~羽田のJAL便が欠航となったこと、カタール航空はカタール領空閉鎖が解除され次第、飛行機の運航を開始すること。
電子掲示板を見ると、ムンバイ、バンガロール、デリーなどインド行きの飛行機がキャンセル表示となり始める。ほかのフライトの欠航も時間の問題だと思い、空港ホテルを検索するが、既にソールドアウト。
午後4時、乗る予定だったウィーン便の欠航が決まる。旅行会社、保険会社に電話をするが、繋がらない。カタール航空のカウンター近くに、「Quiet Room」という休憩スペースを見つけ、そこで空港泊することにした。
早めの夕飯を取ろうとバーガーキングに行くと、枕とブランケットがもらえるという情報を入手。航空会社のカウンターに向かうと、旅行客が必死の形相で家族の分を確保しようと手を伸ばす姿があった。体格が良い人も多く、全力でチャレンジするも私はブランケットの奪取に失敗。すごすごと戻ってきた。その後も何度かトライし、ようやく最後の1枚だというブランケットを確保したのだった。
空が暗くなっていくのと同時に、空港内も冷えてきた。私もパーカーのフードを被り、コートを着て横たわったが、それでも寒かった。加えて、煌々と照らすライトの明るさ、通路での騒がしい話し声、時々携帯から鳴るアラート音……。なかなか眠りにつくことはできなかった。

日本人のLINEグループが発足
3月1日。夜中の2時半ごろ、通路で人がガヤガヤと話す声で目が覚めた。急いでカタール航空のカウンターに走ると、「今夜のホテルのブッキングをするからパスポートとボーディングカード(航空券)を持ってきて」と伝えられる。
数名の職員で、数百人のパスポートをひとつひとつ確認していくので、自分の分が後回しにされないよう必死でアピールをする。
「Please have a seat」と声をかけてくれた職員に、「去年の6月も攻撃がありましたよね?」と尋ねると、「Almost same」と笑っていた。「市内は安全なの?」と聞くと「Yes」と返答があった。現地のスタッフにとってこうした騒動は日常茶飯事で、まったく動揺がないようだ。

2時間が過ぎたころ、カウンターに名前を呼ばれ、私が泊まるホテルが決まったと知らされた。昨晩受け取ったブランケットを被ったまま、周りにいた日本人と空港の出口を目指す。ゲートの外に出ると、ホテルへ向かうバスを待つため、ものすごい人だかりができていた。スマホの通知を見ると、「カタール脱出‼」という日本人のLINEグループが発足し、招待されていた(当初は50名ほどだったLINEグループは、3月2日19時現在、120名のメンバーがいる)。
一昨日、羽田空港に到着して以来、およそ38時間ぶりに外へ出た。ドーハらしいスタイリッシュな建物を横目に、バスに乗せられ揺られていく。窓から見た朝焼けは、こんな非常事態でも美しかった。

ドーーン!と爆撃音が
バスを降り、受け入れ先のホテルに向かうと、すでに入口には長蛇の列ができていた。どんどん横入りされながら45分以上並ぶと、やっとフロントのカウンターが見えてきた。
「Room is full. Sorry.」
ホテルスタッフからアナウンスがあった。待機列に並ぶ人たちと一緒にガックリ肩を落としたが、何百人もの人がいるのだから仕方がない。「宿泊先が決まるまでどうぞ」とレストランに案内された。ようやくパンでも食べようか、と腰を下ろしたところだった。

ドーーン。
どこからか爆撃音が聞こえた。地震より短いが、ホテル中が震えるような音だった。周囲にいた人たちと窓に駆け寄ると、5、6匹の鳥が一斉に内陸のほうへ飛んでいくのが見えた。
「Evacuate underground!(地下に避難を!)」
ベテランのスタッフがレストランの入口で叫んでいる。言われるがまま、その場にいた100人以上の人々が、荷物を抱えて移動していく。
ロビーのエレベーター横にある小さな白いドアを越えると、地下へ地下へと続く白い非常階段があった。爆破などでこんなに小さい入り口がふさがれたら、出てこられるのだろうか。怖い、と躊躇するより前に、後ろにいる大勢の足音で、歩みを止めることはできなかった。
急いで駆け下りようとすると、目の前に小さめのスーツケースを重そうに抱えるファミリーが見えた。「急いで!」と逸る気持ちが抑えられない。1階、2階……やっとのことで3フロア下がると、そこには予想より広いエリアが広がっていた。30平方メートルほどあるエレベーターホールには、先に到着した人たちが壁を背に窮屈そうに座っている。廊下に並ぶ20脚ほどの椅子はもちろん満席で、そのドアの先には、ムワっと蒸し暑い駐車場があった。最終的に、150人ほどいただろうか。私はエレベーターホールへ戻り、近くにいた10名ほどの日本人たちと一緒に、円陣を組むように地面に座った。先の見えない中での籠城が始まった。
午前8時過ぎ、ホテルスタッフが水を配布してくれた。水や食べ物は手元にあるものの、スマホの充電がなくなるのが一番恐ろしかった。壁の隅にあるわずかなコンセントを奪い合い、充電しながら、私は状況をメモするため紙のノートにペンを走らせた。空港でもらったブランケットを敷き、肩を寄せ合いながら、状況が変わるのを待つ。

光がシャットアウトされているため時間の経過が分からない。少し経ってスマホを見ると、ドーハのハマド国際空港に残っていた日本人も避難を始めた、と連絡があった。Xでは、数時間前に隣国UAE(アラブ首長国連邦)のドバイ国際空港が爆撃に遭い、「アジア国籍の1人が死亡、7人が負傷したことを確認した」という投稿が流れてきた。
隣に座る男性たちは、イランの爆撃のニュース動画を大音量で流している。
けたたましいアラーム音とともに、スマホに空爆の危険警報も流れてくる。
“戦争の真っ只中にいるんだ”という気持ちが現実となってきた。防空壕に逃げていた戦時中の人々の思いが、痛いように分かった。

「1階だから、爆撃の可能性は比較的低い」
「Attention, please.」
そんななか、午前9時ごろにホテルのスタッフがやってきて、おもむろに説明を始めた。歩いて10分ほどのホテルに、50室の部屋が確保できたという。そのアナウンスを聞いて、周りは一斉に立ち上がった。外を歩くというリスクもある上、この人数を収容できるのだろうか……。日本人メンバーも半数が行ってしまったが、私はその場に残ることにした。ぎゅうぎゅう詰めだった地下のシェルターはだいぶ広々としたので、壁際に移動し、足を伸ばせるようになった。
午前9時半ごろ、高市首相が自衛隊に、中東地域に暮らす邦人の救助要請を出したというニュースをネットで見た。日本からドーハまで、直行便でも10時間はかかる。この地下室で待っていたら助けは来るんだろうか。家族と会える日はもう来ないのだろうか。私がノートに書いた記録がどこかに役に立てば、と写真に撮って家族に送りながら、涙が込み上げてきた。
「Attention, please.」
ちょうどそのタイミングで、再びスタッフのアナウンスがあった。タクシーで20分ほどの距離にあるホテルに、75室の部屋が準備できたという。この部屋数なら、受け入れてくれるかもしれないと思い、残った日本人と一緒に、地下のシェルターから出ることを決めた。
ホテルのレセプションで記名をして、Uberのアプリでタクシーを呼んだ。5分ほどでタクシーに乗り込み、街中を20分ほど走った。台数は少ないが街中は車が走っており、ベビーカーを押す女性の姿も見えた。タクシーのドライバーは至って平常通りという様子だった。
午前10時過ぎにホテルに到着した。航空会社が手配してくれたため、1泊分の宿泊費、翌朝の食事は無料で提供されるという。案内された部屋が1階だったことから、爆撃の可能性は比較的低いと説明された。清潔なホテルの部屋でバックパックを下ろして、いつからか続いていた耳鳴りはようやく収まっていった。
バックパックひとつで避難。今朝も空爆警報が……
そこから1日半もの時が経つ。未だ領空が閉鎖されており、職員の安全確保のため、空港職員も出勤していない。そのためキャリーケースは空港に預けたままだ。
バックパックひとつで避難してきたが、外へ出るのは危険を伴うため、足りない衣服や食事などはデリバリーで届けてもらっている。アプリで頼むと、スーパーの食料品から衣服、レストランの料理まで、バイクや車で届けてくれるのだ(旅行者の中には近くのスーパーなどへ買い出しに行く者もいる)。今朝も空爆警報がスマホに届き、わずかな物音が空爆の音ではないかと怯えながら、ホテルの部屋で過ごしている。
なんとか情勢が落ち着き、領空閉鎖が解除され、日本へのフライトが再開する日まで、私は生き延びていきたいと思う。
(現地時間:3月2日午後7時執筆)
source : 文藝春秋 電子版オリジナル

