読売新聞中興の祖であり、日本テレビ初代社長の正力松太郎(しょうりきまつたろう)(1885-1969)。平記者時代から“大正力”の謦咳(けいがい)に触れた渡邉恒雄(わたなべつねお)グループ本社会長・主筆が、その功績と経営手腕を振り返る。
大正13年、明治初期以来の伝統を持つ読売新聞は、経営の失敗により、5万部まで部数を減らし、倒産寸前だった。
同年、警視庁警務部長としていずれ警視総監、内務大臣が予想される出世街道にいた正力松太郎は、難波大助事件(摂政宮=後の昭和天皇暗殺未遂事件)で山本権兵衛内閣総辞職とともに懲戒免職になり、浪人であった。彼は直後、摂政宮の婚儀恩赦により復権するのだが、官途に復さず、つぶれかかった読売新聞を買い、社長になる。買収資金は、外務大臣や東京市長として手腕をふるった後藤新平から10万円を借りた。

新聞経営者として“創意工夫”により、ラジオ欄、碁将棋欄、日曜夕刊、プロ野球創始などのアイデアを実行して、当初の5万部を終戦時には、朝日、毎日につぐ約200万部の大新聞にしたので、「読売中興の祖」といわれる。
正力は生涯、外遊ということをしたことがない。にもかかわらず、海外の文化、スポーツ等の導入には熱心だった。誰がその情熱や知恵を正力に注入していたのかは、約20年、彼の配下にいた私にとっても定かでない。
講道館柔道を広め、十段を持つが、自ら野球に興じたとは仄聞したこともない。にもかかわらず、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースの米国での野球選手としての人気ぶりを聞くと、東京に招待、俄(にわ)か作りの日本チームと対戦させ、球場を満員にさせ、読売新聞の部数を6万部増やした(但し翌年その6万部は消えてしまったそうだが)。
戦後、ビートルズの人気を聞くや、武道館でビートルズを出演させ、大成功を収めたのも同じ経営感覚だったかもしれない。もっともビートルズを「あのペートルズを呼べ」と言っていたというが。正力が元来西洋音楽に知識を持っていたとは聞いたことがない。
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source : 文藝春秋 2013年1月号

