出会ったのは、30歳前後のヒラ記者だった時。以降、何かあれば必ず電話で報告し、プライバシーなく付き合ってきた。そんな中曽根さんの死は、思い出すだけでつらい。彼は、非常に謙虚で、しかも質素で勉強家だった――。
濃密な時間を共有してきた
2019年11月29日、中曽根康弘元総理大臣が101歳で亡くなりました。
訃報に接した時、本当にがっかりしました。中曽根さんは僕より8年上。初めて会ったのは60年以上も前、僕が30歳前後のヒラ記者の頃です。爾来、僕らは何事も相談し、何かあれば必ず電話で報告し、お互いのプライバシーなく付き合ってきました。家族同士も仲がよく、お孫さんとも僕は親しい。7年前に蔦子夫人が亡くなった時も僕はショックを受けたし、僕の妻も2年前に逝ってしまった。そして、今度は中曽根さんだ……。
そんな濃密な時間を共有した人がこの世からいなくなってしまったのだから、思い出すだけで本当につらい。だから、あまり考えないことにしているほどです。
中曽根氏
2年ほど前に、こちら(読売新聞本社の主筆室)に来て、お会いしたのが最後でした。全然ぼけてなくて、頭脳は明晰でしたが、足腰が弱り、耳もほとんど聞こえなくなっていました。僕は筆談しかないなと思い、筆と紙を用意していましたが、中曽根さんの秘書が横について“通訳”してくれました。僕が言う言葉を、秘書がはっきりした声で中曽根さんの耳元で伝えてくれる。それで自由に普通の会話ができたのです。
その後、補聴器をつけても耳が聞こえなくなってしまい、足腰もさらに弱って車椅子で生活するようになったと聞きました。最後は都内の病院に入院していたそうです。僕も足が弱くなり、耳が遠くなったりして、お見舞いに行けずじまいでした。考えてみると、僕も中曽根さんの症状をそっくり辿っているかのようです。僕の方が8年下だから、まだしばらくは持つのかもしれないけれど。
中曽根さんが書いてくれた墓碑銘
実は中曽根さんのおかげで僕の墓はもうできているんです。僕の親父が死んだ時に建てた「渡邉家之墓」が都内の寺にあるのですが、その敷地の隅の方の土地が空いており、2年ほど前に思い立ってそこに僕の墓を建てることにしました。墓碑銘は中曽根さんにお願いしたら、3日で書いて送ってきてくれました。
中曽根氏が書いた墓碑銘
これがその実物です(「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑 中曽根康弘」と書かれ、額装された和紙を見せる)。中曽根さんが書いてくれたこの字を、墓石に彫ってもらいました。「終生一記者を貫く」という文言は、僕からお願いした。そういう墓が欲しいと、自分で思っていたからね。中曽根さんが書いてくれたその墓に、僕は入ることになるわけです。
飲み会よりも読書会
1956年に最初に中曽根さんと会った時のことは今も鮮明に覚えています。当時、初代の科学技術庁長官に就任したばかりで、原子力委員会の委員長もしていた正力松太郎さんに「中曽根君に毎日会いたまえ」と言われて、会いに行ったのです。僕は当時ヒラ記者で、政治部長の命で読売新聞の社主でもあった正力さんのところに頻繁に出入りし、いろいろ情報をもらっていました。
正力氏
正力さんと中曽根さんを結びつけたのは原子力の平和利用でした。正力さんは公職追放中からそれについて考えていて、読売新聞でも原子力の平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」という連載キャンペーンをやっていた。一方、中曽根さんはもともと野党で、最初は民主党で改進党などを経て、保守合同の時に自民党と合併するまで政務次官も常任委員長も縁がなかった。しかしながら彼は原子力について勉強したんだ。改進党時代にハーバード大学の夏期セミナーに行く途中、アメリカの原子力産業の勃興を見た。そして帰国後、原子力の平和利用について考えるようになった。そこを正力さんが自分の後継者として見込んだんだな。
ただ当初、僕は中曽根さんとは肌が合わないと思っていた。スタンドプレーが多く、「憲法改正の歌」なんか作っていたので、タカ派のイメージがあった。しかし実際に会ってみると、そのイメージは覆された。非常に謙虚で、しかも質素で勉強家だった。当時の国会議員は、会うなり「じゃあ飲みに行こう」と言って、銀座や赤坂、新橋の芸者料亭をハシゴするような連中ばかり。ところが彼は野党暮らしが長いせいか、そんなところに行く金がない。
「渡邉君、読書会をやろう」。それが中曽根さんの提案でした。僕も当時はチンピラだから、飲んだり食ったりで芸者の尻を追いかけるなんて柄じゃないし、能率よく本をどんどん読めるのなら、これは政治記者としての見識を深めるのにも大変いい。おまけに相手はうちの社主の正力さんが一番信頼している中曽根さんだ。それで毎週、土曜日の午後に、1回3時間の読書会をすることになったのです。
場所は三番町にあった霞友会館という木造2階建ての4畳半ぐらいの応接室。中曽根さんが「貴族的で豪華な雰囲気でなければ読書会にはあまり似合わないから」と言って見つけてきたんだけど、ちっぽけな建物のちっぽけな部屋。でも、彼はそこで読書しながらコーヒーを飲むことを大変な贅沢だと思っていたんです。
最初は経済部の氏家齊一郎君も参加したが、彼は途中でやめちゃった。それから日本共産党の「福本イズム」で有名な福本和夫の息子で、日本工業新聞記者だった福本邦雄君が加わって3人でやることになった。僕が政治書、福本君が経済書を読んできて、「これこれこういうことが書いてある」と発表する。それを中曽根さんが一生懸命メモを取る。でも、そのうち福本君が椎名悦三郎官房長官秘書官になり、とても時間がないということで、結局は僕と中曽根さんの2人で読書会を続けました。哲学書も政治書も経済学書も読んだ。すぐに理解できないものはお互いに議論して考えたものでした。
聖書と『茶味』とシューベルト
軍隊に持ち込んだ『実践理性批判』
これは昭和2年発行のカント『実践理性批判』(岩波文庫)。僕が軍隊にいる時、隠し持っていた本です。僕はブレイクの詩集とポケット英和辞典と一緒に、密輸よろしく、藁の枕の中に突っ込んで持っていった。その本の第2部「純粋実践理性の方法論」の結論部分はこう書かれています。
〈それを考えることしばしばにしてかつ長ければ長きほど常に新たにして増し来る感歎と崇敬とを以って心を充たすものが2つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律とである〉
これはカントのあらゆる言葉の中で最も文学的かつ情緒的な一節です。僕はこの言葉を暗記していますが、常にコピーを手帳に挟んで持ち歩いています。
今回、中曽根さんの著作を読み返したら『日本人に言っておきたいこと』という本の序論に「私を支えてきた『内なる道徳律』」という文章がありました。その中で彼は学生時代にカントを読みふけったことを明かし、「わが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律」こそが、この数十年に渡って自分の行動を律してきたものだと書いていたのです。僕は中曽根さんが『純粋理性批判』を愛読していたのは知っていましたが、『実践理性批判』も読んでいたとは初めて知った。やっぱり彼も読んでいたかと、大きな感銘を受けました。
そういえば昔、中曽根さんから私への手紙の中に「大兄は、従軍中、実践理性批判と英和辞典を携行された由ですが、私は聖書と『茶味』(奥田正造著)と、『冬の旅』(シューベルト)のドイツ語のレコードでした。(渡邉さんは二等兵でしたが)当方は、将校で余裕あり」と書いてありました。また自分の葬式についても「これは決定したものではありませんが内輪の『花と音楽』の葬式が良いと思いました」と書かれていました。青年時代からロマンチストであったことや、カントを精神的支えにしてきたこと、そして人間としての考え方において、中曽根さんと僕は近似した点があったと思います。
大野伴睦に入閣を依頼する
一方、政治の世界では、中曽根さんは敵が多かった。しかも、自ら敵を作るきらいがありました。
僕と中曽根さんがトコトン親しくなったのは、59年6月の第2次岸信介改造内閣のとき。中曽根さんは当時41歳で河野一郎派でしたが、是が非でも初入閣を果たしたかった。だが当時、岸と河野は口も利かないほど関係が悪化していた。当然ながら河野に頼んでも岸には話が通じない。そこで僕が一計を案じ、赤坂の料亭で、大野伴睦副総裁と中曽根さんを会わせたんです。僕は駆け出し時代に大野さんの番記者で、毎日大野邸に通ううちに非常にかわいがられるようになっていた。それで3人で会うことになったわけです。
父のように慕った大野伴睦氏
ところが大野さんは部屋に入るなり「おい、中曽根。貴様は造船疑獄の時に予算委員会で『大野伴睦は賄賂をもらっている。政治生命をかけて言う』とか言ったな! あの時の恨みを俺は忘れてないぞ」とやり出した。大野さんは一度怒ると止まらない。平伏している中曽根さんを一方的に怒鳴りつけるんだ。これはマズイ。そこで僕は言った。
「副総裁、あなたは竹を割ったような性格だと言われてるじゃないですか。中曽根さんはあの時、野党の改進党にいました。野党時代の発言を恨んで、今、けしからんと言い出したって、それは副総裁らしくないじゃないですか。今はこうやってお互い与党になったんだから」
すると大野さんも変わり身が早い。「そう言われりゃそうだな。ウン分かった、水に流す」。しかも「ところで中曽根君、君は宰相の相をしている」と言い出した。これには僕も驚いた。実際、後に総裁になったのだから大野さんには人を見る目があったんだろうけれど。
こんなに話が早いなら僕もそう苦労しない。「中曽根は河野派で組閣への窓口がなくて困っている」と言うと「よし、俺が岸さんに入閣させろって頼んでやる」。
これで中曽根さんは科学技術庁長官になれました。
大野伴睦さんもまた、僕は親しく付き合った人です。最終的には中曽根さんは総理、大野さんは自民党副総裁ですから、中曽根さんの方が政治力はあったのかもしれません。しかし、大野さんは派閥の長として傑出した人物で、この手打ちの会合の際は中曽根さんよりも明らかに一枚上でした。ただ、教養は段違いに中曽根さんのほうが上。中曽根さんが愛したのは『純粋理性批判』でしたが、大野さんは広沢虎造の浪曲でしたから。
裏切りの「白さも白し富士の白雪……」
中曽根さんは20代で内務官僚を辞めて自転車一台で選挙活動を始めた頃から、総理大臣を志していた。最初から総理にふさわしい教養を身に着けるべく努力し、状況に対応して自分を変えることができた。だから大野伴睦さんの前でも平伏して「よろしくご指導ください」と言えた。その意味では、確かに「風見鶏」なのかもしれません。
ただ、風を見ても態度を変えられなかったら、ただのチンピラ止まりだったでしょう。一方、大野さんは風を感じても、あえて逆風に飛び込んだり、総理と喧嘩したりしていた。
しかし、そんな大野さんも、もとは鳩山一郎派で反吉田茂だったのが、親分の鳩山と袂を分かって吉田派入りした。議長を2回もやったし、大臣もやった。その辺はやっぱり利口でしたね。党人派の頑固オヤジという感じがする一方、頭がさえた。子分を見る眼もあったし、親分を見抜く力もあった。
その大野さんの失敗が、1960年7月、自民党総裁選に出馬しようとした時です。岸内閣は日米安保条約改定が成立後に退陣、その後継を争った総裁選だ。
大野さんには勝算があった。というのも59年1月に岸や佐藤栄作らと「大野を次期総裁にする」という密約を交わした証文があったからだ。岸首相は安保条約のため、党内反主流派にポストを与えて主流派に組み込もうとした。それに反対したのが大野さんと河野さんだったのだが、この2人を繋ぎとめようとして、この密約を結んだ。僕は当時、この密約の立会人だった児玉誉士夫の家に行き、証文を見せてもらったことがある。
総裁選の当初、岸派は「中立」と言っていた。僕は「岸さんのところに行って、確かめてきてくれ」と大野さんに言われた。つまり、あの証文が今も有効か確認して来いと。僕が岸のところに行くと「私の心境はでしゅよ、白さも白し富士の白雪でしゅよ」と言う。これは執念深い復讐の言葉だと、僕はピンときた。
話は1956年の総裁選に遡る。岸が石橋湛山に負けた時、岸は大野派の票が欲しくて、品川の大野邸を訪れて土下座せんばかりに頼んだ。その時、大野さんが岸に言ったのが「白さも白し富士の白雪」だった。大野さんはそう言って岸を追い返して、石橋を支持した。
岸にはその時の恨みがある。それで証文は反古になると、僕は帰って大野さんに報告した。すると、大野さんの腰巾着だった衆議院議員の村上勇が「新聞記者に政治家が本当のことを言うか。俺は同じ日に岸さんに会った。岸さんは約束を守ると言っていた」と言う。岸にうまいこと言われたんだな。どちらが正しいかはすぐわかったんだけどね。結局、大野さんは立候補を断念した。
翌朝6時、大野さんの秘書から「来てくれ」と連絡があった。ホテルの大野さんの部屋に行くと、普段は虎みたいな男がオイオイ泣いている。そして「俺の派の代議士は、岸は俺に入れると言っていた。君だけが本当のことを言ってくれた」と言う。更に翌日、大野派の七奉行と呼ばれた幹部を料理屋に集め「渡邉君だけが本当の情報をくれた。俺は感謝している。俺が死んだら俺の家族を渡邉君のために尽くさせる」とまで言ったよ。以来、僕はさらに大野さんから信用していただいたけど、その大野さんも4年後の64年5月に亡くなった。僕が父のように慕った人でした。
「風見鶏でいいじゃないか」
中曽根さんに話を戻しましょう。65年に河野が他界した後、河野派が分裂し、中曽根さんは中曽根派を結成する。ところが、党内で反佐藤栄作の急先鋒だった中曽根さんは、67年11月の内閣改造で、佐藤内閣の運輸大臣に就任。「切っ先を交えるところまでいかなければ喧嘩もできない」なんて変な理屈でね。これで「風見鶏」と言われるようになったのです。
しかし中曽根さんは、入閣後も反佐藤の姿勢を緩めませんでした。そして68年のある日、佐藤首相の首席秘書官から僕に「明日午前8時に佐藤の自宅に来てくれないか」と電話がありました。だけど僕はお断りした。「朝8時に行ったって、その後閣議があるから話せる時間は10分もないじゃないか」。当時、僕も佐藤首相とは極めて悪い関係でした。毎日一面トップで佐藤批判を僕が書いていた。だからこっちも身構える。10日ほど後、「午前10時から会談時間は無制限。これでどうだ」とまた電話。総理からそこまで言われれば、行くしかない。
そこで初めて佐藤首相とじっくり話をしたのだが、いろんな話をざっくばらんに語り、本当に面白かった。
渡辺氏
2時間ぐらい経ったところで佐藤首相が「君はワシントン支局長になるそうだが、いつからですか」と聞く。「今年の暮れです」と答えたら「餞別を差し上げたい」と来た。餞別と言ったら普通はカネだ。すぐに突き返そうと思って、僕は身構えた。すると、佐藤首相が「読売にはやらん」と反対していた大手町の土地払下げを、「餞別だ」と言う。これは一種のユーモアだろうが、それよりも面白かったのはもうひとつの餞別のほうで、「中曽根君に忠告願いたい」ときたことです。
「政治家は何度も大臣をやらなきゃいかん。仮に自分の子分がなる機会を犠牲にしても、何度も入閣し、行政経験を重ねるんだ。そうしなければ総理大臣にはなれないと私は池田(勇人)君から言われた。その通りだと思った。だから僕も佐藤派の子分を犠牲にして、大蔵大臣も通産大臣も繰り返しやった。それで天下を取ったんだ。中曽根君にこの話を伝えてくれないか」
佐藤首相との会談が終わった後、僕は中曽根さんにこの話をし、「僕も佐藤さんの言うとおりだと思う。恐らく佐藤さんは今後、あなたに閣僚をやれと言ってくると思う。その時はポイと受けなさい」と伝えました。その後、70年の第3次佐藤内閣で本当に防衛庁長官の話が来て、中曽根さんはそれを受けました。その際も「風見鶏」だと批判されましたが、中曽根さんは「風見鶏でいいじゃないか」と涼しい顔。
中曽根さんは防衛庁長官の仕事を一生懸命務め、佐藤さんの悪口を言わなくなった。これで佐藤首相と中曽根さんは気脈を通じるようになりました。ある時は「私が尊敬するのは吉田茂と佐藤栄作、この2人だ」とまで言っていたほどです。2人ともおよそ非中曽根的な人物ですが、ある意味では心服していたのだと思います。
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source : 文藝春秋 2020年2月号