伊東正義 表紙だけ変えても駄目だ

堀内 光雄 元通産相

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 1980年、大平正芳首相が選挙中に急逝。

 1989年、リクルート事件で竹下登首相が退陣。

 この二度にわたる自民党の危機に際して、後継候補に名前を挙げられながらついに首相にならなかった伊東正義(いとうまさよし)(1913―94)。宏池会の後輩議員として、伊東首相実現に奔走した堀内光雄(ほりうちみつお)・元通産相が語る。

 伊東さんの第一印象は、一言で言えば「裏表のない人」でした。1979年、党内で大平派と福田派などの争いが激化し、大平正芳、福田赳夫の2人が首班指名選挙に臨む異例の事態となった、いわゆる「四十日抗争」の頃のことです。私はまだひよっこの2回生議員として、当時ホテルの一室に設けられた宏池会の裏選対の電話番をしていました。そこに、伊東さんが時々やってきては、「大平君のところに電話をかけてくれ」と言うのです。

伊東正義 ©文藝春秋

 実際に大平首相が電話に出ると、伊東さんは私に話したのとまったく同じ調子で、「伊東だ。大平君、あの件はこうだよ」と話し始めるのです。他の大抵の人は、電話する前には偉そうに「俺がよく言っておく」などと話していても、実際に大平総理が電話に出ると「総理、これはこうなっております」などと丁重に話すのが普通でした。ところが伊東さんはまったく違った。戦時中、中国の興亜院で机を並べた仲とはいえ、大平さんより年齢は4つ下です。大平さんと伊東さんが、心から信頼し合っている感じが、そばで電話を聞いているだけで伝わってきました。伊東さんは、「大平首相のために力になるんだ」という自信にあふれていました。

 伊東さんは1913年、会津若松市の生まれです。裏表がなく、議論の際には言うべきことは徹底して主張するのだが、後味がよい。まさに「会津っぽ」という言葉がしっくり来る人でした。

「四十日抗争」の後に発足した第二次大平内閣で、伊東さんは官房長官として大平さんを支えます。翌80年の衆参同日選挙の最中に大平さんが亡くなると、総理大臣臨時代理を務めながら、一方で選挙を取り仕切り、自民党は圧勝します。臨時代理だった伊東さんには当然、「後継総理に」という声が多数あがりました。

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source : 文藝春秋 2010年3月号

genre : ニュース 政治