総理として所得倍増計画を推進、日本社会を「経済の季節」へ転換することに成功した池田勇人(1899〜1965)。次女の池田紀子氏だけが知る、家庭での父の姿とは。
私が生まれたのは父が大蔵官僚時代でしたが、とにかく忙しい父でした。週末も仕事は当たり前。夜は遅くまで宴席に出て、朝は先に私が学校に行くので滅多に会わない。たまに家で見かけたら「どちらのおじさんかしら?」と思うほどでした。
昭和23(1948)年に退官し、翌年、衆院議員に当選。吉田茂総理の強い引きもあり、大蔵大臣に抜擢されます。今でも覚えているのが「貧乏人は麦を食え」発言が報道された時のこと。父は「頑張って働いて、今は麦飯でも将来はみんな銀シャリを食べられるようになろう」という趣旨のことが言いたかったのですが、本意が伝わらず、揚げ足を取られてしまった。私も小学校に登校する際、「お父さん何か言ってましたか?」と新聞記者に信濃町駅の改札まで追いかけられました。小学生に分かりっこないのにね。それに池田家は昔から麦飯だったんです。
昭和35年7月に池田内閣が誕生しますが、私はその直前、学習院大学2年生でアメリカに留学しました。翌年、ケネディ大統領との会談の際は飛行場に迎えに行きました。タラップから降りてくる父を出迎えたのですが、会釈をするだけで、一言も話さなかった。するとアメリカの新聞に、久しぶりに会ったらキスなりハグなりするはずだ、不思議な親子だと書かれたんです。日米の感覚はだいぶ違うと思いました。
総理就任後は、官房長官の大平正芳さんに「料亭とゴルフは慎んでください」と言われ、代わりに自宅にお客さんを呼ぶようになりました。朝6時頃から政治家、財界人、陳情客などが引っ切り無しに訪れる。それを秘書たちが第一・第二応接室、表座敷、奥座敷……と、振り分けるのです。夜は9時頃から日替わりで大蔵、外務、通産、警察などの官僚が来て勉強会。彼らが帰ったら、池田番の記者たちとの懇談が始まる。
こうしたお客さんの分も含め、毎日の食事の支度を任されていたのが、帰国後の私や妹の祥子でした。50〜60人は訪れるので、近所の魚屋では間に合わない。そこで築地の魚河岸まで通い、市場の魚を箱ごと買って帰りました。夜、父は眠くなったら「俺は寝るぞ」と寝室に行ってしまうのですが、私は皆さんにつまみを出したりしながら、2時頃にようやく就寝。朝は妹が担当なので、流石に朝食は免除されていましたが、毎日がてんやわんやでした。
選挙の手伝いもしました。父は自分だけでなく、宏池会の議員の選挙への目配りも必要です。昭和38年の衆院選では、婦人会から母と夜の12時頃に広島の家に戻ってきたら父から電話がきました。明日、田中六助さんの応援に、福岡県田川郡まで行って欲しいというのです。田中さんは日経新聞の池田番で、父も信頼していた方です。朝5時にスーツケースと化粧鞄を持って、鈍行で田川まで行きました。「何を言えばいいの?」と六助さんに相談しながら、約300人の前で演説をしました。他にも数えきれないほど、応援演説に行きました。
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