湛山の「小日本主義」に竹内好はアジア主義を読み取った
6月20日、衆議院議員会館にて超党派の議員連盟「石橋湛山研究会」が主催する集まりで、私は講演を行った。この「湛山議連」については、本誌4月号の連載で、政治不信が頂点に達し自民党政治が終わりを告げつつある時代に、「真正保守」の政治家でありジャーナリストであった石橋湛山がよみがえる機運のあらわれであろうとの見方をさしあたり示しておいた。
そして、派閥と利権に特徴づけられた近現代の政党政治を批判してきた湛山の遺志はそこに投影されているのか、対米従属一辺倒ではなく日本の独立自尊を探ろうとした湛山を本気で活かす気があるのか、期待と疑念の入り混じった語調で「湛山議連」への関心を記したと思う。
その論を含めて、湛山の軌跡を地下水脈として辿り直しながら「真正保守」の復権を目指す私の本誌連載が湛山議連の目にとまり、今回の講演依頼となったのであろう。
講演当日、岸田内閣の政治改革への姿勢が不徹底で国民からの信頼はすでに失われているとして、立憲民主党から内閣不信任決議案が提出され、多数派の与党側によって否決されるという動きがあり、開始時刻が30分ほど遅れたが、会議室には政治家やメディア関係者50人ほどが参加していたと思う。私は、いまという時を、岸田政権の末期、自民党政治の終焉、近現代の政党政治の転換点である特筆すべき時期とみなしながら、「石橋湛山、その人物像と政治思想」と題した講演を行った。
ここ半年ほど、現実の政治状況の陥没ぶりを見据えながら、湛山精神の再興を手探りしてきたが、今回はその〆として、様々な歴史的局面に向き合う湛山の発言を具体的に紹介して、それをいまの問題意識で再考し、さらに湛山精神に繋がる知識人の系譜を改めて辿ってみたい。
言論人として、政治家として
湛山は、1884(明治17)年9月25日に生まれ、1973(昭和48)年4月25日に亡くなっているが、その人生は見事に二つに分かれる。1945(昭和20)年8月までの近代史においては言論人であり、経営者でもあった。それ以降の現代史にあっては政治家であり、教育者としての側面も持っていた。
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