「半沢直樹には感謝してます」

半沢 淳一 三菱UFJ銀行頭取
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リアル半沢頭取はどんな「倍返し」を目指すのか?
半沢淳一頭取
 
半沢氏

『半沢直樹』が親しくなるきっかけに

 正直、自分が頭取に指名されるまで、そんなことになるとは意識したことはありませんでした。ところが昨年暮れ、急にそういう話になった。妻には「そういうことになるかもしれない」と伝えていましたが、大学生の息子たちには話していませんでしたから、報道が出た時には、彼らからLINEメッセージで「マジ?」と来た(笑)。その時は「帰ったら話す」とだけ返信しておきました。

 断るまでもないかもしれませんが、私はドラマ『半沢直樹』のモデルではありません。原作者の池井戸潤さんは旧三菱銀行の同期の一人です。新人研修では、1カ所に集められて外為や融資について学びます。その時に同じクラスでした。ただ、総合職の同期は約400人いますから、それぞれ別の支店配属となってからお会いしていません。でも、就任発表会見のすぐ後に池井戸さんが「同じ半沢同士、日本の金融界に新風を吹き込んでいただきたい」とエールをくださったのは大変嬉しかったです。

 ドラマの第1シーズンが放送された2013年は、経営企画部の部長をやっていました。『半沢直樹』がいいのは、最後はちゃんと正義が勝つところ。気持ち良く寝られるタイプのドラマだったから、毎週リアルタイムで観ていました。

 ドラマの放送翌日の月曜朝は役員を含めた会議があったので、先輩の役員から会議の場で、「来週の半沢はどうなるんだ? 教えてくれよ」と、冷やかされたこともありました(笑)。

 半沢直樹に感謝したのは18年に営業本部長として名古屋に赴任した時です。名古屋は初めてだったのですが、名刺を渡せばお客様がすぐに名前を覚えてくださる。冗談で「ちゃんと倍にして返してくれるんですよね」と言われたりして、親しくなるきっかけになりました。

 わが家の子どもたちは幼稚園の頃からサッカーをやっていて、私も休日には少年団の試合の審判に駆り出されたのですが、お母さま方から「銀行って本当にああいうところなの?」とまじめに聞かれたこともあります。ドラマには、出世のためだけに仕事をしている銀行員が次々と登場しますが、実際は、「お客様のためを思って仕事をする」という矜持を持っている行員が大勢いることは、この場を借りて強調しておきたいです。

お酒を支店に送る

 今年4月、三菱UFJ銀行のトップに就任した半沢淳一氏(56)は、大ヒットドラマ『半沢直樹』(TBS系)の主人公と同じ苗字であることから注目を集めた。

 ドラマの主人公半沢直樹(堺雅人)は、上司や政府にも楯を突く型破りなバンカーで、「倍返し」は流行語大賞にもなった。2020年10月の第2シーズン最終回で半沢は、中野渡頭取(北大路欣也)から「君は将来、この銀行の頭取になるべき男だ」と言葉をかけられ、東京中央銀行の行内融和を託されてドラマは終わる。それから3カ月後、現実世界で“半沢”頭取が誕生したわけだ。
①ドラマ
 
ドラマは視聴率40%を超えた

 頭取になってすぐに始めたことは現場との対話でした。それは経営が現場から遠く離れたものであってはならないという思いがあるからです。私が頭取に就任した以上は、現場との距離をなるべく近くし、経営改革も現場の声を踏まえたものを推進したいと考えています。

 1対200のタウンホールミーティングや、支店を回って若手行員約10人との意見交換会などを実施してきました。緊急事態宣言下ではオンラインがメインになり、深いやり取りが難しくなることもありますが、私の思いを伝えることはできたのではないかと思います。

 地方の支店に単身赴任している行員は、コロナ禍ならではの苦労もしています。仕事後にお客様との会合や、仲間との飲み会に行くこともできなくなり、帰宅して一人さびしくコンビニ弁当を食べているというのです。そういった話も聞いていたので、お酒を送って夜7時ころから話を聞いたこともありました。私と話したからと言って気が済むわけでもないでしょうが(笑)。広島支店の行員たちとオンラインミーティングを行った時は、広島東洋カープのユニフォームで登場して盛り上げてくれました。

 半沢氏は埼玉県立浦和高校を経て東京大学経済学部卒業後、88年に旧三菱銀行に入行。ほぼ一貫して経営の中長期的な戦略を練る企画畑を歩んできた。入行年次が早い副頭取や専務ら13人抜きで、50代半ばのトップ就任は異例だという。

ボートで鍛えた

 私は埼玉県出身で、50年以上大宮市に住んできました。私にとっては住みやすい街で、荒川を渡って埼玉に戻るとホッとします。

 浦和はサッカーが有名ですが、大宮は野球が盛んです。私も中学までは野球少年でしたが、さすがに自分は王・長嶋になれないと悟り、野球は中学でやめました。

 浦和高校時代の思い出と言えば、ボートです。体験入部で訪れたのが戸田市のボート場。これは64年のオリンピックコースです。そこで楽しく漕がせてくれたのですが、いざ入部して、本格的に漕いでみるとなんでこんなに辛いんだろうと(笑)。

 ボートは全身を使って漕ぎます。私は背が低いほうなので、漕手に指示を送るコックスが適任なのですが、漕ぐ方をやっていました。と言っても戸田で漕ぐのは週に1、2回。普段の練習はグラウンドで走ったり、懸垂したりと、体力づくりがメインです。思い返すと、毎日走っていましたね。私のポジションは4人乗りの左サイドで、当時は利き手ではない左手の方が力がありました。

 浦高は体力よりもチームワークで勝つのが伝統です。1つ上の代はインターハイにも出場しましたが、我々は県大会敗退でした。今でもボート部のメンバーとは集まることがあります。

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荒川

 そんな私がなぜ、バンカーを志したのか。理由は2つあります。大学を卒業した1988年当時は、まだバブルという認識はなく、戦後にできた会社が次々と上場して成長し、中堅中小企業も躍進しているタイミングでした。融資という形で、こういった企業のさらなる成長を支えることができたらと思ったのです。

 もう一つは、政府が金融業界の規制緩和に動き出したということもあります。銀行が証券業務に参入できるようになり、銀行グループとして活躍の場が広がりそうな雰囲気があった。この予想は当たりました。

 90年代以降、銀行業界は経営統合を繰り返してきました。私は入行4年目に大蔵省に出向しましたが、銀行に戻ってからは企画部が長かったこともあり、そこで経営統合に携わることになりました。今振り返ると、グループ経営を経験させていただいたことが大きな財産となっています。

 最初は、96年の東京銀行との合併でした。当時では日本最大規模の合併だったので、いろいろと難しいことがありました。三菱銀行のやり方が常識と思っていたら、東京銀行ではちがう。そういうことがお互いにありました。例えば、与信業務では業種に対する見方、担保の取り方がちがう。粗利ベースで見るのか、当期利益ベースまで見るのか。そういった一つ一つの業務のノウハウがちがったのです。

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役員自ら原稿を書くように

 特に印象に残っているのが、役員会議でのある習慣です。三菱では役員会議の際、部下が上司の原稿を用意していたのですが、東京では役員自ら原稿を書いていました。今では必要な場合には役員自ら原稿を書くようになっています。

 その後、経営統合を何度も経験していくわけですが、その過程で徐々に自分たちのやり方に必要以上に拘らなくなっていったと思います。これは統合をスムーズに進めていく上で、とても大事なことで、経験を通して学んだことでした。

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source : 文藝春秋 2021年10月号

genre : ビジネス 社会 経済 企業