戦犯容疑者の身から首相に上り詰めた岸信介(1896〜1987)。番組で岸の実像に迫った安井浩一郎氏が、「昭和の妖怪」が戦後日本に遺したものを改めて問い直す。
「カミソリ」と言われる怜悧な頭脳、融通無碍な政治手腕、A級戦犯容疑者の身から宰相に上り詰めた経歴などにより、「昭和の妖怪」とも呼ばれる岸信介。紛れもなく昭和という時代を突き動かした人物である。
戦後政治は、二つの潮流がせめぎ合う中で形成されていった。一つは、吉田茂が掲げた軽武装・経済成長優先の「豊かさ」路線とでも言うべき路線だ。もう一つは、岸が掲げた「自立」路線とでも言うべき路線である。岸は戦後日本の基盤となっている諸制度が占領軍によって作られたものだと批判し、憲法改正による「独立の完成」を宿願とした。私たちは、この二大潮流を紐解く番組(NHKスペシャル「戦後70年 ニッポンの肖像 政治の模索 保守・二大潮流の系譜」)を制作し、関係者の証言や資料から岸の実像に迫った。
現在の山口県田布施町で育った岸は、長州の幕末志士たちへの憧憬を抱きながら成長する。国家を重視する岸の思想は、この風土を抜きにしては語れない。抜群の成績で東京帝国大学法学部を卒業した岸は、戦前は商工官僚として満州で計画経済を実行し、戦中は商工大臣として開戦詔書に署名、軍需行政や戦時経済を指導した。終戦後、こうした経歴が問われ、A級戦犯容疑者として逮捕される。3年間巣鴨プリズンに収容され、一時は極刑も覚悟していた岸だったが、東條英機ら7名への死刑執行の翌日、不起訴となり釈放された。番組の取材過程で、岸が幽囚の日々と再起への思いを綴った書を地元の民家から発掘できた。郷里の禅寺で「鬱屈三年 意始伸」(大意、鬱屈の日々を3年間過ごしたが、はじめて気持ちが伸びる思いだ)と揮毫し、「戦後体制」に挑戦する決意を新たにしていたのだ。
政界復帰後の岸は、「占領政策の下請け機関」と見なした吉田茂政権への批判を強める。岸は反吉田勢力を糾合、鳩山一郎らと日本民主党を結成し、吉田を退陣に追い込んだ。翌年には保守合同によって、現在に連なる自民党の結成を主導し、初代幹事長となる。そして昭和32年、政界復帰からわずか4年で、総理大臣として権力の頂点に立った。
政権最大の課題として取り組んだのは、日米安保条約の改定だ。吉田の締結した旧安保条約は、米国の日本防衛義務がなく、日本の内乱に米軍が出動できるなど、岸には占領政策の延長の「不平等条約」と認識されていた。岸はこの条約を改定し、さらに憲法改正を行うことで、はじめて「国家の独立」が完成すると考えたのだ。岸は一気呵成に交渉を進め、米国との条約調印に漕ぎ着けた。岸にとって残る関門は、国会の承認だった。条約が承認された状態で米大統領を日本に迎えるべく採決を急いだ岸は、強硬策に出る。座り込みで反対する野党議員らを警官隊によって排除し、怒号の中で条約を単独採決したのだ。
この採決が、くすぶっていた安保反対運動に火を付ける。争点は「改定の是非」から「民主主義の擁護」に広がり、デモが加速度的に拡大したのだ。参加者は1週間後には54万人に膨れあがった。反対運動に携わった故・伊藤茂(後の社会党衆院議員)は、岸の採決が「組織的な『縦型』運動が国民的な『横型』運動となる一大転機になった」と取材で証言した。開戦詔書に署名し、A級戦犯容疑者でもあった岸の「戦前」性を想起させる経歴も相俟って、批判の声は大きなうねりとなった。それでも岸は、デモは組織化された一部の「声ある声」であって、改定支持の「声なき声」に耳を傾けるとの姿勢を崩さなかった。しかし、学生が警官隊との衝突の中で死亡したことで、反対運動は頂点に達する。条約は自然成立したものの、政権を維持できる状況には最早なく、岸は条約発効を見届け退陣を表明する。
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