吉田茂(1876〜1967)は昭和21(1946)年から昭和29年の間に首相を5回務め、軽武装、経済復興、反共を大方針として戦後日本を率いた。その政治力の淵源には何があったのか? 政治思想史を研究する原武史氏が解き明かす。
吉田茂といえば、戦後5回にわたって首相を務め、「ワンマン」と呼ばれながら日本を復興させた保守政治家として、その名を知らぬ者はいないだろう。
吉田にとっての政治活動の場は、永田町の首相官邸や、公邸として用いた朝香宮邸(目黒公邸。現・東京都庭園美術館)のほか、神奈川県大磯町の私邸があった。戦争末期の空襲で永田町の自宅が焼け、大磯に移ってからはここを離れず、首相になってからも東京と大磯の間を定期的に往復する生活を続けた。現在、吉田の私邸は大磯町により「旧吉田茂邸」として忠実に復原され、一般公開されている。
しかしもう一つ、重要な政治活動の場があったことはあまり知られていない。第三次吉田内閣の首相だった1950(昭和25)年から政界を引退した63年にかけて、毎年夏に決まって箱根の温泉地にある知人の別邸や旅館に滞在し、ここに政治家や官僚を呼び寄せたのだ。
箱根に滞在している間、吉田は閣議や集会にも出ようとしなかった。政治家や官僚が東京から車に乗り、東海道を経由して足しげく通う光景は、「箱根参り」「吉田詣で」などと揶揄された。
近衛文麿、鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘ら、戦前から戦後にかけて首相となる政治家の多くは、軽井沢に別荘を持っていた。だが吉田は軽井沢に別荘どころか、そもそも別荘自体を持っていなかった。箱根で滞在したのは、50年の木賀温泉・塩原又策別邸と53年の大涌谷温泉・旅館「冠峰楼」を除けば、小涌谷の小涌園に隣接する三井財閥の一族、新町三井家の別邸と決まっていた。この広大な別邸を、吉田はあたかも自分の別荘のように用いたのだ。現在は解体され、跡地に藤田観光のマンション3棟と旅館「水の音」が建っている。
吉田は三井別邸に政治家や官僚を呼び寄せる一方、彼らには決して見せなかったであろうもう一つの顔を別邸であらわにした。
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