この年齢になったせいで、自分は何をした人間だったのかと考えはじめた。正確にいえば、何をしたではなく、何をしたかったのかとしばしば自問する。一言に整理すれば、高度成長期のイケイケでえらそうな建築を、低成長、少子高齢化時代にふさわしい、地味で、しかもほんわかとしたやさしい建築へと転換したかったのである。
その転換をこころざすきっかけを作ってくれたのが、高校1年の時に読んだ、この、建築とはあまり縁がなく見える吉田健一『ヨオロッパの世紀末』(岩波文庫)であった。どこで買って、どこで読んだかも、はっきりと記憶している。1971年3月25日、下石神井のイエズス会修道院に向かう途中に、乗り換えの渋谷駅の三省堂で買い求めた。修道院の高い塀の中に3日間こもって、一切の会話も許されずに祈り続ける「黙想の会」という一種の修行に参加しようと思い立ったのは、何をしたらいいか、何をしたいのか、わからなくなっていたからである。死と救いについての神父様のおそろしい講話を毎朝聞いた後、小さな独房に戻って、この本をむさぼり読んだ。
昭和の宰相吉田茂の息子である英文学者の吉田健一はこの本の中で、産業革命後の19世紀ヨーロッパを支配した、経済成長最優先の、遊び心のかけらもない画一的でマッチョな人々を痛烈に批判している。それは同時に、父吉田茂が最初の路線を引いた、戦後日本の高度成長に対する批判ともなっていた。日本の戦後と、ヨーロッパの産業革命が重なって、歴史に補助線が引かれ、目の前の霧が晴れた。その一句一句が、1971年の迷える僕の心に響いて、僕を救い出してくれたのである。
それ以前、小学4年生の僕は、1964年の1回目の東京オリンピックで、丹下健三の設計した国立代々木競技場の体育館の勇姿を目にして、建築家を志した。無邪気な建築少年だった僕は、高度成長の勢いを象徴するコンクリートと鉄のモニュメントに、未来の希望を見出し、心を奪われてしまったのである。その天に向かうモニュメントは、明るい未来をめざしてまっすぐにそそり立ち、輝いていた。
しかし、その未来への熱狂は、その後どんどん醒めていった。汚染で異臭を放つ近所の川や海、水俣病を始めとする公害問題の悲惨や、企業や行政の傲慢で不寛容な態度を見て、中学時代の僕は高度成長の時代に嫌気がさし、その時代をリードしていた建築自体にも魅力を感じなくなっていった。自分の将来に対しての展望も夢もなくしていた。高度成長も、その象徴のコンクリートの大型建築も、人間を不幸にするだけだと感じ始めた。その暗い気分が、『ヨオロッパの世紀末』で一転したのである。
そこには、産業革命の挫折が描かれていた。社会は一見豊かになり、繁栄したが、昭和と同じように水も空気も汚染され、貧富の差は拡大した。その挫折の時代が「世紀末」と呼ばれた。停滞して病的で、退廃と蔑まれていたその世紀末こそが、実は一番寛容で自由で健康な時代であったと、吉田は世紀末の評価を反転したのである。そこには価値観の大逆転が語られ、低成長の中の新しいタイプの幸せが描かれていたのである。そこに生まれた文学もアートも建築も、おそろしく魅力的なものに感じられた。この本に出会って、修道院から塀の外の明るい娑婆に出てきた僕は、生まれ変わったような晴れ晴れとした気分であった。
楽しく明るく自由に
気持ちをすべて入れ換えて、もう一度デザインや建築に対する興味も湧き上がってきた。とはいっても、僕を待ち受けているその20世紀の世紀末に、どんな建築がふさわしいかが、高1の幼稚な僕にわかるわけもない。とりあえず、コンクリートと鉄でできた、イケイケでマッチョで大袈裟な建築はもう終わりだということだけはわかった。どんなかっこうをした建築がそれに代わるかはわからなかったが、上昇と成長だけをめざすような野蛮で野暮な人達とは、違う道を歩いていこうと決意した。まったく逆に、吉田健一のように、あるいは世紀末のアルチュール・ランボーやオスカー・ワイルドのように、停滞と見える時代の中の限られた一刻一刻を愛し、楽しく明るく自由に生きようと心に決めたのである。
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